野球が団欒の中心になることがほとんどなかったわが家でも、この春は少しだけ変化が起きた。

 さすがに小学校でもWBCは盛り上がっていたと見えて、これまでならチャンネルを変えると決まって「えーっ↘」となっていた野球中継にも「ニッポン、勝つかな?」と前のめり。とりわけ、上の娘はこちらが何も言わなくても「今日ローキ、投げるんでしょ?」なんてことを言いだすようにまでなった。

 もちろんそこには、仲のいいクラスの友達の何人かが地域の少年野球チームに入っていたり、体育の授業でやった「ティーボール」(ピッチャーの投げた球ではなくティーに置いたボールを打つやつ)が、ことのほか楽しかった、などなど、彼女と野球との距離を近づけた要因もいくつかはある。

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 でもいちばんはやっぱり、娘の出席番号がずっと変わらず「15番」なこと。そして、ロッテの「15番」がその間、ずっと美馬学だったこと。たぶん、このことに尽きると思う。

 あらためて文字にしてみると、なんだかちょっと大げさな感じもするけど、でも、ずっと「父親をバカみたいに一喜一憂させるもの」でしかなかったプロ野球に、彼女が「近づいてもいいかな」と自分から思うようになったきっかけは、間違いなく、美馬なのだ。

美馬学 ©時事通信社

ロッテが「美馬さんのいるチーム」になった日

 安田尚憲について書いた去年のコラムでも少し書いたけど、始まりはテレビでやっていた美馬ファミリーの特集(確か『人生が変わる1分間の深イイ話』だったと思う)がたまたま目に触れたこと。

 ちいさい子の世話を焼くのがもともと好きな娘は、そこで生まれつき右の手首から先がない先天性四肢欠損症の“ミニっち”と、そのミニっちにやさしく寄り添う美馬夫妻の姿にいたく感銘。彼女にとって、ロッテはその日から「美馬さんのいるチーム」になったのだ。

 ローテーションの概念などまだわからない彼女が「今日、美馬さん出る?」と聞いてくるたびに、「いや、美馬さんは先発投手だから週に1回しか投げないよ」と、ぼくが返す。それは、こと野球に関してほぼほぼ共通言語のなかった父娘の間に初めてできた取っかかり、にもなったと思う。

 この取っかかり、というのは案外重要で、自分の小学生時分を思い返してみても、当時まだ阪急ファンだったぼく自身、1年生のときの出席番号と同じ「7番」の福本豊にはやっぱり他より思い入れは強かったし、その福本が「世界の~」なんて呼ばれていることを、子どもながらに誇らしくも感じていた。

 あの頃はまだそんな言葉はなかったけど、“推し”になった選手が、子ども目線から見ても尊敬できるか否かは、その後の“推し活”においてもすごく重要な位置を占めていると思うのだ。

 それだけに、娘が初めて“愛着”を感じた選手が、地味だけど頼りになる、人のよさが全身から滲みでる美馬学という男だったことは、親目線から見てもベストな選択。

 だって、娘の出席番号がもし仮に「1番」で、タイミングがちょっとでもズレていたら、「あの人、何したの?」と無邪気に聞かれて、さぞかし答えに窮しただろうし、それにどう答えるかを奥さんに横で見られているのも、男として試されているようでちょっと複雑な気分になったはず。

 ぼくらの頃と同じように、小学校の出席番号が男女別のままだったら、それこそ「7番・鈴木」だった可能性もあっただろうから、そうなると今度は「なんで急にいなくなったの?」、「今度から楽天の応援する!」とかなんとか、また別のややこしさがあったに違いない。

 その点でも、ノースキャンダルで家族想い。しかも、おそらくロッテでキャリアを終えるであろう美馬ほど、“はじめてのロッテ”にうってつけの人材は他にいない。なので、ファンとしても親としても、ぼくは、娘が15番で、15番が美馬で、心の底から「ありがとう」と思うのだ。