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北のサブマリン、日本ハム・鈴木健矢の原点を探して

文春野球コラム ペナントレース2023

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 過日、解説者の松沼博久さんとプライベートでご一緒する機会があり、もちろん僕は鈴木健矢をどう思うか尋ねたのだ。通算112勝、西武の黄金時代を支えたアンダースロー、松沼兄やんに売り出し中の「北のサブマリン」はどう見えているのか?

鈴木健矢 ©時事通信社

「テイクバックのとき、腕がピーンと伸びるでしょ。あれが好き。今のピッチャーは後ろが小さいのが主流で、テイクバックはなるべく見せないんですよ。でも、鈴木健矢はピーンと伸びる。僕もピーンと伸ばしてた」(松沼博久さん)

 ああ、確かに兄やんはピーンと腕が伸びてた。野球カード等に残ってる写真もそうだ。あのピーンと伸ばしたテイクバックでまずタメをつくって、更に腰をかがめ、下半身で粘ることによってタメをつくる。打者は待ち切れなくてタイミングを狂わす。

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「アンダー転向」というのは投手にとってどんなものなのか

 そこから松沼兄やんのアンダースロー講座が始まった。鈴木健矢はプロ入りしてからのアンダースロー転向だけど、始動からリリースまでの一連の動作がスムーズで様になってるそうだ。同席していた放送作家の近澤浩和さんが「渡辺俊介の動画を見て研究したようです」と言い添えると、「研究熱心で、センスがある」と褒めてくださった。

 僕は「アンダー転向」というのは投手にとってどんなもんか、兄やんに実感的な部分を聞きたかった。ファイターズはたまにそういうことがある。古くは80年代のエース工藤幹夫がキャリアの晩年、野手に挑戦した。02年のドラ1、尾崎匡哉も最後は捕手にチャレンジした。19年の春季キャンプ中、紅白戦に登板した白村明弘が(監督とGMの助言で)野手に転向した。20年には育成契約になった姫野優也が投手として再登録された。

 このなかで鈴木健矢のケースに似ているのは白村の例だ。去年(22年)の春季キャンプで突然、新任の新庄ビッグボスからアンダー転向を提案されたのだ。「提案」というけど断るわけにもいかないだろう。どうなのだろう、これまで投げてきたフォームを捨てるというのは。それまで試してもいないアンダーに転向するというのは。

「僕は取手二高のとき、ピッチャーがいなくてお前投げろって言われてピッチャーになったんだけど、何かね、球が行かないんだよね。で、色々工夫してサイドにしてみたら球速が出たの。で、もっと強い球が欲しくてアンダーになって、テイクバックのピーンっていうのもやってみるんだけどね。誰だって初めてやってみた日があるんですよ」(同)

 あぁ、そういうものかと思う。初めてやってみる分にはみんな同じなのだ。アンダー転向を「上投げ失格の烙印」を押されたと取るか、工夫して自分の武器にしていけるかは受け取り方次第なのだろう。

 鈴木健矢は積極的にチャレンジする柔軟性を持っていた。アンダー転向1年目の22年シーズン、2勝1敗3ホールド(防御率2.84)ときっかけをつかみ、今季は見事ローテーション入り、5月25日現在、3勝2敗1ホールド(防御率1.77)の好成績を挙げている。特筆すべきは4月1日、楽天2回戦、エスコンフィールド初の勝利投手に輝いたことだ。この日は延長10回、リリーフ登板で「歴史に名を残す」幸運を射止めた。

「北のサブマリン」の原点が知りたくなった

 僕は5月3日、ベルーナドームのバックネット裏から鈴木健矢の流麗なフォーム、リリースポイントの低さを眺めて、惚れ惚れしたのだった。負け試合だったけどね、その日から鈴木健矢カッコええなぁと夢中になった。そうすると色んなことが知りたくなるのだ。JX-ENEOSでは巨人の若林晃弘と重なってるかなとか、木更津総合時代はオレ、夏もチバテレで見てるなとか、ついつい思いを巡らせてしまう。たぶん野球ファンならみんなそうだと思うが、この時間がいちばん楽しいのだ。選手のあれこれを空想し、次の試合を待つ時間。

『広報そでがうら』(2023年1月1日発行)の「夢の始まりは、袖ケ浦市。」という記事を発見した。鈴木健矢の故郷、千葉県袖ケ浦市の広報誌だ。掲載されたプロフィールを見ると「長浦小・長浦中学校出身。小学2年生の時に野球を始め、久保田ロングス→長浦中学校野球部→木更津総合高等学校野球部→JX-ENEOSを経て、2019年ドラフト会議で北海道日本ハムファイターズから4位指名を受け、入団(以下略)」と学童期の球歴が詳しい。僕は俄然、「北のサブマリン」の原点が知りたくなった。松沼兄やんの言われる通り、「誰にだって初めてやってみた日がある」のだ。それはアンダースローという意味で言われたのだけど、鈴木健矢が鈴木健矢になったそのスタート地点、彼の素直さや負けん気や研究心の出発点が知りたい。

「私が野球を始めたのは、小学2年生の時でした。当時の私はやんちゃな性格で、兄にいつもくっついて遊んでいたので、兄が野球を始めると聞いた時、『お兄ちゃんずるい! 僕も野球やりたい』と言って、ついて行ったのがきっかけでした。でも、正直、その時は『野球』というものが何か全く知りませんでした(笑)。野球を始めてから数カ月経った頃に、親がプロ野球観戦に連れて行ってくれて、その時に『プロ野球かっこいいな』と思って、その頃から憧れるようになりました。子どもの頃から、興味のあることにはのめりこむタイプだったので、そこからすぐに『プロ野球選手になりたい』という自分の夢が始まりました。それからはずっと、その夢を周りに言い続けていましたね」(「夢の始まりは、袖ケ浦市。」インタビュー)

 袖ケ浦市ナイスである。この記事は貴重だ。お兄ちゃん、野球を始めてくれてありがとう。そして、小学校低学年で抱いた夢をまっしぐらに叶えてしまった健矢少年の才能と強運を思う。

「私が小学生時代に所属していた久保田ロングスは、長浦駅前の坂本公園で練習していて、この頃からピッチャーをやっていました。平日の放課後も遊ぶといったら野球で。友だちと坂本公園で野球をしたり、一人で近所で壁当てや素振りをしたりと、毎日野球をやっていましたね。当時から本当に野球が楽しくて、大好きでした」

 さぁ、これを読んだからたまらない。僕はその公園の野球場が見たくなった。選手のプライベートに関心はないのだ。鈴木健矢の実家を特定しようみたいなことは興味がない。そうではなくて、スタジアムで僕が感激しながら見たプロ野球のスターが初めて投げた少年野球場を見てみたい。そこに立って、思いにふけりたい。鈴木健矢の原点のマウンドが見たい。

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