1960年代半ば、私が小学生の頃、関西にはプロ野球4球団がフランチャイズを構えていました。阪急・西宮球場、近鉄・藤井寺球場と日生球場、南海・大阪球場、阪神・甲子園球場。当時のパ・リーグでは南海、西鉄、東映が3強を形成。62年東映優勝、63年西鉄優勝、64年南海優勝と、毎年のように優勝チームが入れ替わっていました。
大阪府南部で生まれ育った私は、大阪・難波と和歌山を結ぶ南海電鉄沿線でしたから、難波の駅前にある大阪球場での南海戦がプロ野球観戦デビュー。夏休みの南海・東映戦でした。薄暗い通路から一塁側内野席ほぼ最上段のスタンドへ出ると、これまで見たことのないきらびやかなナイター照明! 小学生にはもう夢の世界です。
そして60年経った今でも絵が描けるくらい鮮明に記憶に残っているのは、当時の南海の主砲・野村克也捕手が夏の夜空に高々と打ち上げるキャッチャーファウルフライ。内野席ほぼ最上段で観戦している私の目の高さをオーバーするところまで打球が打ち上がって来るのです。オールドファンの中には覚えている方も多いと思いますが、大阪球場は難波の繁華街の一角の狭い敷地に造られた野球場でしたから、とにかくスタンドが高くて急傾斜。スキーのジャンプ競技のあのジャンプ台を思わせる形状でした。そんな高さまでよく飛ぶものです。
こんな幼い頃の思い出を楽天監督時代の野村さんに話すと『そんな昔のことをよく覚えているね。捕手の後方にまっすぐ打ち上がるのはタイミングがまあまあ合っていてそれほど悪くない。あなたが見たのはボクの打ち損じだなあ』。確かに、キャッチャーファウルフライの後、豪快なホームランが出ていたりして(さすがにそこまでの記憶はありませんね)。
「阪神9割、相手1割でも平気ですよ」
時は流れて、南海はダイエーとなって福岡へ、近鉄はオリックスと合併して「新生オリックス・バファローズ」に。関西は2球団となりました。私は多くの関係者の方々のお力添えをいただきながら、その2球団(オリックス・阪神)の主催試合の実況を担当させていただいています。
私が新人アナだった1980年代前半には、野球放送の世界では「公正中立」が原則。片方のチームだけをもてはやす実況はそれほど多くはありませんでした。やがて球団関係企業が中継のスポンサーとなって放送に関わる流れとなり、各チームに球団映像が備わってきました。この形ならとても実況はやりやすく、担当球団の主催試合はできる限りの「身びいき実況」で押し通せます。
京セラドーム大阪のオリックス対パ・リーグ球団の試合でオリックス優勢の試合展開なら『もっといけるぞー』、劣勢でも『まだいける、頑張れー』というノリですね。サンテレビボックス席(大阪万博の前年、1969年から54年間続いている関西の名物野球中継。熱狂的虎ファンの皆様から絶大な支持を受けています。ありがとうございます)の阪神戦では、さらに強烈な阪神応援実況を繰り出します。担当初年度に当時のプロデューサーからいただいたアドバイスは『阪神のことなら何でもいくらでも喋ってもらって結構。阪神9割、相手1割でも平気ですよ』。確かに中継映像を注視してみると、攻撃時にはタイガースの打者が、守備時にはタイガースの投手と守備陣がバンバン登場。相手チームのリリーフ投手やピンチヒッターをゆっくり紹介する時間はありません。徹底しています。少しだけ残っていた「放送は公正中立で」という意識は早く改めなければいけないと痛感しました。