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笑い飯が見た“地獄”

「笑い神 M-1、その純情と狂気」第1回——富も人気も一夜で手にできる「M-1」に賭けた漫才師たちの物語。

中村 計

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 M-1で勝つよりも、まず、笑い飯に認めて欲しかった――。

 2018年のM-1後、あと一歩のところで決勝進出を逃したひと組の漫才コンビに焦点を当て、本誌に「敗者たちのM-1グランプリ プラス・マイナス『奇跡の3分』」という物語を書いた。彼らや、彼らの周辺の芸人は、ことごとく冒頭のようなセリフを口にした。

 もはや年末の風物詩となった漫才日本一を決める日本最大のお笑いイベント、M-1グランプリで優勝すれば、一夜にして世界が変わる。富も、名声も、人気も、一度に手に入れることができる。現代の芸能界で、これ以上のシンデレラストーリーはそうはない。にもかかわらず、「ミスターM-1」と称される笑い飯による承認は、M-1王者に匹敵するほどの価値があったという。
 

 

 ◯◯に認めて欲しい。それまで、このブランクに入りうる人物は、この世界では、ただ1人だけだと思っていた。笑いの神、ダウンタウンの松本人志である。

 だが、違った。

 おでこに「火山」が2つ隆起していた。ぎょっとするほど大きく、赤かった。

「ネタづくりが、いちばんストレスがかかる。1年の、峠になってますね。髪もこの時期になると白くなるんです。今では、ほとんど真っ白。ま、遺伝が主な理由なんですけど」

 2021年7月17日、午前11時過ぎ。漫才コンビ・笑い飯の哲夫は、いかにも寝不足といった表情で日本青年館ホールの楽屋に姿を現した。髪は黒く染めなおされている。

 日本青年館ホールと、一新された国立競技場は、目と鼻の先。6日後にオリンピック開幕を控え、周囲は物々しい雰囲気に包まれていた。

 笑い飯は、短髪で、尖った鼻の哲夫と、長髪で、口と顎にヒゲを蓄(たくわ)えた西田幸治の2人からなる結成22年目のコンビである。今年で、ともに47歳。いずれも既婚者で、小さな子どもがいる。お笑い王国、吉本興業所属の「漫才師」だ。

 2人ともヘビースモーカーだった。アメリカンスピリットというアメリカ製タバコを愛好する哲夫はインタビュー中、煙を吐くときは決まって顔を真横に向け、手を壁のようにして口の脇に添えた。その上で、一気に吐き出す。煙がこちらに流れてこないようにとの配慮である。極端に生真面目な男でもあった。

 一方、西田はマルボロのメンソールを好んで吸っていた。取材を重ねるごとに慣れていったが、最初の2、3回くらいまでは、ほとんど目が合わなかった。大胆なようで、繊細な一面も持ち合わせていた。

 M-1において、笑い飯は2002年から2010年まで、9年連続で決勝ラウンドに進出を果たした。空前絶後の記録である。そして、参加資格のタイムリミットだった2010年に悲願の初優勝を遂げている。M-1の最初の10年は笑い飯の歴史でもあった、そう言われるゆえんである。

 笑い飯は昨年、結成20周年という節目を迎え、全国ツアーを計画していた。だが、新型コロナの感染拡大にともない、プランは今年に後ろ倒しとなった。

『笑い飯の漫才天国~結成20+1周年記念ツアー』として新たに始動した4年ぶりの全国ツアーは、その初日を都会のど真ん中にある鎮守の杜、明治神宮が見守る地で迎えようとしていた。

 遡ること、4日前――。深夜12時15分、大阪・難波にある吉本興業大阪本部の会議室から、哲夫が憔悴し切った様子で出てきた。

「大谷君、明日、8時から12時まで、どこか(部屋を)取ってくれへん?」

 大谷智郎は笑い飯の担当マネージャーだ。入社3年目、まだ25歳。笑い飯が全国ツアー用の新ネタ2本をつくるための時間を設けたのは、その日で三度目だった。あとは本番前日しか会議室を確保していなかった。かなり追い込まれているようだった。

 10分後、相方の西田が疲労困憊の表情を浮かべて出てきた。大谷が「どうですか?」と水を向ける。

「パーツ、パーツだけやな。うーん……、バツンとこんわ」

 私もその場にいたのだが、2人の雰囲気に気おされ、何も話しかけることができなかった。

「いつ見ても無言」

 笑い飯のネタづくりの壮絶さは、仲間内で、半ば神話化していた。

 2017年のM-1王者、とろサーモンの村田秀亮は、笑い飯とは20年近い付き合いになる。にもかかわらず、「僕は舞台以外で、2人が会話してるの、一度も見たことがないんですよ」と平然と語る。

 哲夫と西田の距離感。私がそれを理解したのは、あるイベント用の写真撮影のときだった。カメラマンがもう少し2人に寄り添って欲しいとリクエストを出す。ところが、西田はまったく応じる気がなさそうだった。それを察知した哲夫は、小さく右足を西田寄りに滑らせたが、それはあくまでポーズで、2人の距離はほとんど縮まっていなかった。
 

とろサーモンの村田秀亮(左)と久保田かずのぶ

 漫才のネタとは、ごくシンプルに表現すれば「濃密な会話」だ。女性コンビとして2005年、初めてM-1決勝に進出した元アジアンの馬場園梓は「自分のネタを人に見せるって、肛門を見せるぐらい恥ずかしいこと」だと言った。

 普段、言葉を交わさない笑い飯の2人が、ネタづくりのときだけは、裸になり、真正面からぶつかり合わなければならなかった。

 若い頃、M-1の時期が近づくと、2人は難波にあった「baseよしもと」の楽屋に籠った。baseよしもとは、かつてあった若手主体の劇場で、笑い飯は長くそこの大将格として舞台に上がっていた。村田が振り返る。

「baseよしもとには2つ楽屋があって、笑い飯はいつもちっちゃい方の楽屋でネタをつくってました。扉を開けたままなので、中の様子が丸見え。椅子2席分あけて、横並びで座ってるんです。いつ見ても無言。劇場終わりにそんな様子を見て、先輩とかと飲みに行くじゃないですか。飲んだ後、よく劇場に戻ってくることがあったんです。8時間後とか9時間後ぐらいに。そうすると、2人は出た時のまんま。動いた気配すらない。そんなの、ザラでしたね。だから、不思議でしたよ。あの2人の漫才はなんであんなにおもしろくなるんやろう、って」

 一般的に漫才コンビはツッコミ役とボケ役に分かれる。しかし、笑い飯は「ダブルボケ」と称されるように、2人ともがボケを担当する。

 現在は漫才のスタイルも多様化してきたが、ひと昔前まで、漫才の華と言えばボケだった。島田紳助・松本竜介の紳助しかり、ツービートのビートたけししかり、ダウンタウンの松本人志しかり。ボケの方が自分の才能に対する自負が強く、ツッコミはそんな相方を「あいつは天才」と持ち上げる。それが従来の典型的なコンビの在り方だった。

 だが、笑い飯は違った。いずれも相方を認めてはいるものの、あくまで、いちばんは自分。ともにボケの座を譲るつもりはなかった。結果、生まれたのが「ダブルボケ」という禁断のスタイルだった。

 厳密には、相手がボケているときは互いにツッコミも担うので「ダブルボケ、ダブルツッコミ」と呼んだ方がいいのだろうが、たいていのネタは、さながらボケ合戦だ。どうだ、おれの方がおもしろいだろうと、ムキになってボケ合う。

 かつて、ビートたけしが笑い飯を「ガキのケンカ」と評したことがあった。これほど的を射ていて、これほどの誉め言葉もない。

 笑い飯のネタは、大まかな設定をまずは哲夫が考える。それに対し、西田が興味を示すか否かが最初にして最大の関門だった。

 まさに子どものケンカがそうであるように、2人の辞書に「歩み寄り」という言葉はない。西田がぶっきらぼうな口調で言う。

「A案とB案があって、僕がA、哲夫がBがいい言うたら、どちらでもないC案になることが多いですね」

 非効率、非合理、非論理。生産性など、度外視。それが笑い飯のネタづくりだった。

 とはいえ、結成当初のネタづくりは、もっと和気あいあいとしていた。ネタづくりが殺伐としてきたのには2つ理由があった。

 一つは、ネタが出てきそうなところはほぼ掘り尽くしてしまったこと。哲夫が考える設定の条件は「みんながわかって、で、誰も漫才に取り入れてないこと」だ。加えると「今、流行っているんはイヤ」。M-1で披露したネタでいうと『奈良県立歴史民俗博物館』や『機関車トーマス』がそうだった。どちらも誰もが記憶のどこかに刻まれている存在で、しかし、それが漫才になるなどと考えた人は誰もいなかった。

「哲夫基準」をクリアし、かつ新しく、かつ前年を上回るネタを絞り出すことは、毎年、カラカラに乾いた雑巾を絞るような感覚に近かった。

 ネタづくりの空気が重くなった原因の二つ目は、互いの相手を思う温度の変化だ。コンビとして何度となく衝突し、こすれ合い、関係性が摩耗してしまった。哲夫が明かす。

「M-1の決勝、観てみてください。2004年から、ほとんど目、合ってないですから。それまでは恥ずかしくなるぐらい、こっち見てくれてるんです。僕のこと好きでいてくれてるなぁ、みたいな。けど、あの頃から、すごい離れていかはったなという印象があります」

 それからというもの、ネタづくりの時間の大半を沈黙が支配するようになった。そうして、明け方、何も収穫がないまま、どちらからともなく部屋を出る。そんな光景を仲間たちは「地獄」と呼んだ。

 哲夫は、そんな煮えたぎった無音の世界を「いいのんが降りてくる待ちみたいなもんです」と言う。

 笑い飯は今も毎年、単独ライブを開催し、それに合わせて新ネタを2本から3本つくることを自らに課している。若い頃は徹夜など当たり前だったが、近年は体調を気遣い、遅くなっても夜12時を越えないよう意識している。しかし、「いいのん」が降臨してこないと、日付をまたぐことも珍しくなかった。

 マネージャーの大谷は時間が許す限り2人が籠る部屋の前で仕事をした。そして、タイミングを見計らっては、コンビニで哲夫が好むお茶と、西田が好きなコーラやエナジー系飲料水、またお菓子などを買い込んできて、部屋の扉をノックした。

「飲み物は空っぽになってますけど、お菓子は手を付けていないですね。ただ、何か差し入れでもないと、入るきっかけがないんで」

 大谷が笑い飯の担当マネージャーになったのは一昨年の5月のことだった。年末、大阪と東京で恒例の笑い飯単独ライブが開催された。

 普段、ほとんど会話のない2人だったが、舞台上では、西田のボケに哲夫が腹を抱えて笑っていた。その光景を目の当たりにした大谷は震えるような感動を覚えた。

「本当にすごいなと思いましたね。すごいコンビなんだな、って。昔からのファンのツイッターを見てたら、〈数年ぶりに笑い飯が2人で目を合わせて漫才してる〉みたいに書かれてましたね」

 漫才の世界には、いかにも自然な感じで笑って、客の笑いを誘発する「誘い笑い」というテクニックがある。ただし、それは、あまり品のいい方法ではないとされている。

 哲夫の場合は無論、誘い笑いではなかった。

「僕、本番中も、めちゃめちゃ笑いますよ。あんときは、泣き笑いしてましたね。何言うてんねん、って」

 新ネタはギリギリまで試行錯誤を繰り返し、1、2回合わせただけで舞台にかける。そのぶんアドリブも多く、互いに新鮮だった。

 仲がこじれた漫才コンビにとって、万能の良薬がある。それは、客の笑い声である。哲夫が話す。

「向こうがアドリブを入れてきて、僕が的確にツッコんで客がウケると、西田君も、僕の目ぇ、見てきますね。そんときが、いちばん仲直りしている感じがします」

 私も昨年、笑い飯の単独ライブを大阪と東京の2カ所で観た。そして、大谷同様、心を揺さぶられずにはいられなかった。

 最後のM-1出場から、ちょうど10年が過ぎていた。今の笑い飯にM-1のときと同じ輝きを求めるのはナンセンスだと思っていた。ところが、いたのだ。M-1のときのままの笑い飯が。いや、あのとき以上にバカバカしく、まぶしく映った。

 40代半ばを過ぎ、2人は未だに「ガキのケンカ」を続けていた。その姿は、神々しくさえあった。

 漫才の本場は関西だ。関東で生まれ育った私は、正直に告白すれば、これまでの人生でほとんどと言っていいほど漫才に触れる機会はなかったし、興味を持ったこともなかった。そんな私が今、漫才の世界に、M-1の世界にどっぷりと浸かっている。厳密に言えば、漫才を好きになったのではない。漫才に、そしてM-1に青春を賭けた芸人たちの生き方にたまらなく惹かれたのだ。

 光り輝くネタは、いわば一粒の砂金だ。何百回、何千回と川の砂を皿で掬い、選ばれし者にだけ見つけることができる。毎年、M-1のために生み出される何千組の、おそらく何万というネタは、誰にも知られぬままゴミ同然に破棄されて行く。人を笑わせることのできないネタほど世の中で無用なものはない。

 M-1とは、ネタの壮大な墓場でもあった。にもかかわらず、漫才師たちは毎年、そこへ向かった。彼や彼女たちの人生に触れるたびに、号泣しながら大笑いしたくなるような、生きることを1パーセントの疑いもなく肯定したくなるような感覚を覚えた。芸人とは、なんとバカな生き物なのだろう、と。

 彼、彼女らは、例外なく愚かだった。もっと言えば、狂っていた。しかし、それゆえに、直視できないほどの眩しさを放ってもいた。そんな中に、桁違いの狂人で、桁違いの恒星があった。

 それが笑い飯だった。

「やっぱ、こいつしかおらんな」

 笑い飯は、今も、おでこに特大のニキビをこさえながら、新ネタを生み出し続けていた。もはや大金や名誉を得られるわけでもないのに、「地獄」の中で、前年の自分たちを上回ろうと人知れず格闘していた。

 とろサーモン・村田の相方、久保田かずのぶも、そんな笑い飯を心の師と仰いでいた。

「僕、漫才論とか、しゃべったことないんですよ。っていうのは、笑い飯みたいな、神様みたいな漫才師がいるから。おれの御託なんて並べたらいけないんだろうなって。ただね、これだけは言いたい。漫才師も、YouTubeとか、17LIVE(イチナナ)とか、いろんなジャンルで稼げるようになった。それはいいことだと思うんです。でも、みんな目を覚ましてくれ、って。おれたち、しゃべりで、てっぺんまで登ってやろうって、言ってたじゃないですか。その刀、どうしちゃったんですか。10年、20年経って、自分の腰を見たら刀がない。あれ、どうしよう。どうしようじゃないでしょ。誓いを破ったの、そっちでしょう。その誓いを今も守っているのが笑い飯なんですよ」

 全国ツアーの初日は、いよいよ翌日に迫っていた。その日の夕方までに新ネタを2本、完成させなければならなかった。しかし、ネタの外枠さえ、まだ定まっていなかった。夜、仕事を控えていた2人は午後6時にいったん解散し、夜11時に再び会議室にやってきた。もう後がなかった。西田が回想する。

「もうちょっといいのが出るんじゃないかと思っていたんですけど、タイムリミットが迫っていたので。今まで出てきた案で行くしかないな、と。どれも新しいわけでも何でもないんやけど」

 限られた条件の中でベストを尽くすしかなかった。

 会議室の外に哲夫の甲高く乾いた笑い声が響いてきたのは深夜2時ごろだった。哲夫の笑い声はネタの「産声」でもある。居合わせた大谷の体の中に熱いものが走った。

「……グッときましたね。担当してからいちばんアツイ瞬間でした」

 そこから3時半ぐらいまで、何度となく哲夫の笑い声が聞こえてきた。心の底から笑うときの哲夫はいつも窒息しそうな笑い方をする。

「腹がよじれるって言いますけど、ほんと、笑うときは、昔っから、お腹が痛い痛いってなるんですよ。笑うてるときは、仲直りのとき。だから新ネタつくるのって、大事なんですよ。そこで僕がケラケラってなったら、やっぱ、こいつしかおらんな、ってなるんで」

 あの伝説のネタをつくっていたときも同じだった。

 大会委員長の島田紳助が「感動しました!」と叫び、M-1史上初となる「100点」をマークした名作『鳥人(とりじん)』が誕生したのは、2009年のことだった。

(文中敬称略、以下次号)

source : 週刊文春 2021年11月4日号

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