1972年。全共闘運動は敗北に終わり、新しい音楽を求めたPYGは翼を折った。ジュリーとショーケン、ふたつの太陽はそんな時代に輝き始めた。第4章・開幕。
(しまざききょうこ 1954年、京都市生まれ。ノンフィクションライター。著書に『森瑤子の帽子』『安井かずみがいた時代』『この国で女であるということ』『だからここにいる』などがある。)
沢田研二がはじめて紅白歌合戦へ出場を果たした1972年は、あさま山荘事件が起きて連合赤軍事件が発覚し、「日本列島改造論」を引っさげた田中角栄内閣が発足。60年安保から続いた政治の季節に完全に終止符が打たれ、騒乱の後に人々の気持ちが豊かさと消費という内側へ向かっていく転換期であった。この年の師走に発行された渡辺プロダクションのファンクラブ誌「ヤング」1973年1月号で、沢田は「謹賀新年 PYG 気分を引きしめて…」と色紙に自筆で記した。
沢田の字はその性格を表すかのように筆圧が強く、一文字一文字を崩すことなく書かれた明晰かつ几帳面なものだが、この時期、すでにPYGはスタートした時のロックバンドではなかった。沢田自身はソロシンガーとしてヒット曲を連発し、「許されない愛」で72年のレコード大賞歌唱賞を受賞。もうひとりのヴォーカル、萩原健一は目の覚めるような演技で注目を集め、両者の人気はグループサウンズ(GS)時代に迫る勢いだった。残されたメンバーは単独でロックフェスティバルに参加することもあれば、時に沢田だけではなく他の歌手のバックを務めて、PYGはリーダーの井上堯之が言うように「音楽としての共同体」へと形を変えていた。
それでも沢田は、正月恒例のファンへのプレゼントに「PYG」と書かずにはいられなかったのだ。それだけPYGへの帰属意識が強く、仲間たるメンバーへの思い入れも強かったのだろう。エッセイストの玉村豊男を相手に語りおろした85年刊行の半自伝で、彼はその頃の気持ちを語っていた。
〈だいたい僕がソロシンガーになるなんてことが信じられない、といってダダをこねたんですね、僕は。でも結局は、じゃ、ソロでレコードは出してもいいと、妥協したんですよ。ただ、独立してとか、そういうことは言わないでほしいと。PYGの楽器を演奏するメンバーたちが、いつも一緒にいてくれるんであったら、やると。PYGでなくて、沢田研二と井上堯之バンド。名前は変わるけど決して僕はソロシンガーになったわけではないと〉(『我が名は、ジュリー』)
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source : 週刊文春 2021年12月23日号