2015年に刊行された『羊と鋼の森』で第13回本屋大賞を受賞した宮下奈都さん。その受賞第1作は、13年前に文學界新人賞の佳作となった、いわば幻のデビュー作でもある。
「この小説を書いたときは、作家になろうと思っていたわけではないんです。この1作が全てという気持ちで書いたので、後のことを考えて出し惜しみをしたりせずに、今持っているものを全部形にしようと。そういう意味では、一番純粋な作品と言えるかもしれません」
〈秋の夜の匂い〉など、『羊と鋼の森』の大切な場面に使われている言葉が既に登場していたのも印象的だ。
「デビュー後に北海道のトムラウシに住んだことがあって、そこでその匂いが好きになったと思っていたので、読み返して驚きました。どこにどんな可能性があるかわからない、という物語の展開も『羊と鋼の森』と繋がっていますよね」
ある日、主人公のこよみは事故に遭い、その後遺症で新しい出来事を覚えておけなくなってしまう。
「この作品は、可能性をなくしていくことと向き合った話でもあるんです。若い人には無限の可能性があると言われることがありますが、じゃあ、主婦には可能性がないのかってもがいていたところでもあったので。どんな年齢の、どんな生き方をしている人にも可能性はあるんじゃないかって」
脳に記憶が刻まれなくなっても、こよみと、彼女を支えようとする行助(ゆきすけ)の距離は近づいていく。人が記憶でできてるだなんて、断固として否定しなくちゃいけない。行助はそう呟く。
「記憶っていい加減なものでもあって、本人が間違えて覚えていることもありますよね。そうするとその人の人生が変わってしまう。もちろん、いきなり生まれ変わることはできないけれど、これまでのことよりも、今、何をするかの方が大切だと思うんです。だから、将来の夢とか、そんな大きなものについても、私はあまり興味が無いですね」
もし宮下さんがこよみと同じ状況に陥ったら。少し意地悪なことを聞いてみた。
「夫には『いつボケてもいいよ』って言われているんです(笑)。この話って、年をとったら、そんなに非現実的な話でもないですよね。わたしも遠からず、昔のことしか覚えていないという状態になると思うんですけど、たぶん、夫と子どもたちが、私がショックを受けないように、うまくやってくれる気がします。家族を信じていれば大丈夫だって思っているんです」
美味しいたいやき屋を営むこよみと、そのまっすぐな目に惹かれた生真面目な青年・行助。ある朝、こよみは交通事故に遭い、その後遺症で新しい記憶を留めることができなくなってしまう。脳に記憶が刻まれなくなったら、2人の世界はそこで止まってしまうのか。2人は、生活をともにしようとするが――。 文藝春秋 1200円+税