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平成9年「山一證券破綻」 不正の“A級戦犯”が初めて語った「自分に言い聞かせたこと」

NHK「平成史スクープドキュメント」が引き出した“歴史的証言”

2019/01/27

破綻の「A級戦犯」は警告を発しながら不正にのめり込んだ

 取材を進める中、山一証券の内部資料が見つかった。「経営構造の改革について」と題されたリポート。破綻に至る4年前、山一のある社員によって書かれたものだった。そこには、信じがたい言葉が並んでいた。「わが山一は、5、6年以内に沈む運命にある。直ちに不良債権処理、合併、会社更生法の適用を検討せよ」。そして、「簿外債務」を「早急に損失として計上し処理しなければ行き詰る」と綴られていたのだ。極めて真っ当な提言を行なっているこの人物こそ、「簿外債務」を隠蔽し続ける手法を考案し、のちに破綻の「A級戦犯」と呼ばれた元幹部だった。名を木下公明(83)という。

 木下が中心となって行った隠蔽は、当時盛んに報道された「飛ばし」をより複雑にしたものだ。山一は、高い利回りを保証した、「にぎり」と呼ばれる取り引きで、企業から莫大な金を集めたものの、運用に失敗し多額の損失を抱えていた。木下が考案したのは、この損失を分割して複数のペーパーカンパニーに飛ばし、さらにペーパーカンパニー同士でも飛ばしあって当局の発覚を逃れるという巧妙なものだった。経営陣の指示により、実行に移され、破綻直前までの6年間、公になることはなかった。しかし、損失の処理が先送りされ続けられたことが、山一の命取りになったのである。

 さらに、取材を進めると、「経営構造の改革について」の前後に、木下が2つのリポートを残していたことも分かってきた。1つが、バブル崩壊直前、平成元年に記した「法人ファンドの問題点について」。「にぎり」で発生した多額の損失を知り、直ちに償却することを訴えたものだった。そして、もう1つが、自主廃業が決まった直後、平成9年、損失隠しの実態を克明に綴った「山一廃業に至る原因について」。いわば、「懺悔の書」とも言えるリポートで、破綻後に作られた「社内調査調査報告書」のベースになったとも言われる。

©︎AFLO

 木下が残した3つのリポート。驚かされたのは、内容もさることながら、書かれた時期だった。最初に書かれたリポート「法人ファンドの問題点について」は、損失隠しが実行に移される2年も前に書かれたものだった。そして、自らが中心となって隠蔽を行った2年後に、「経営構造の改革について」で、自社の危機的状況に警鐘を鳴らしていたのだ。木下は、会社の危機をいち早く察知し、警告を発しながら不正にのめり込み、その後も、「山一は沈む」と危機を訴え続けていたことになる。

「ふっと夜になると、消えてしまいたくなるような瞬間が」

 なぜ木下は、自己矛盾を抱えながら、不正に手を染め、その後も、事実を明らかにすることなく、不正に加担し続けたのか。これまで、木下がメディアに対して自らの思いを語ったことはない。取材を申し込むと、「語り残すほどのことではない」と拒み続けたが、説得を続けると、顔を写さないことを条件にインタビューに応じた。

©︎AFLO

 待ち合わせ場所に現れた木下は、ハットをかぶり、あごに髭をたくわえ、ひどく痩せているように見えた。不正に関与したことをどう考えているのかを率直に尋ねた。木下は、山一破綻後に脳梗塞を患った影響で「上手く話せない」と断った上で、ゆっくりとした口調で語り始めた。「ようやく最近、人生のシミと思えるようになりました。今も、どうして、あのようなことをやったのか、ずっと考えているんです。ふっと夜になると、消えてしまいたくなるような、死んでしまいたいと思うような、そんな瞬間がこれまで何度もありました」。木下は、脳梗塞に加え、ガンの手術により胃を全摘出するなど大病を患い、今に至るという。しかし、山一における記憶は鮮明だった。木下は「会社のために自分がやらなければ会社はつぶれる。自分にしかできないという傲慢さがあった」と自戒の言葉を口にした。