光をどうつかまえるか、だけを考えている
展示されることになったそれら膨大な写真には、さて何が写っているのか。
見れば、表面に錆びが浮いている金属、枯れて縮んで地面に落ちている樹の葉、ランダムに足跡のついた砂地……。どれも取るに足らぬものに見えるし、どこに着目しているのか見当もつかない。
「いったい何を撮ってるの? と思いますよね。そこにあるモノをおもしろいと感じ、記録に残したいと思って写真は撮られることが多いのでしょうけれど、僕はそうじゃない。光をどうつかまえるか。そんなことばかり考えながら写真と向き合っています。
だから画面に写っているものが何なのか、新奇なものかどうかというのは、僕にとってはどうでもいい。それよりも、生きていて『この光は気持ちいいな、覚えておきたい』と思えたときにシャッターを押す。そうやって撮った写真からは、不思議と質量を感じ取れるんですよ」
思えばたしかに、写真とは光を取り込んで像を生じさせる装置なのだから、そこに光を見ようとするのは、写真のあるべき姿に迫ることとなるのかも。
ただ、光自体をとらえるとはいったいどうすれば可能なのか。写真にはやはり、はっきり目に見える被写体が必要なのでは?
「僕は窓ガラスをよく撮りますが、そのときには窓ガラスそれ自体を撮ろうとします。ガラス面にのみピントを合わせて、できればそこにホコリや手アカが付いているといい。そのほうが美しさを感じられるから。というのはホコリや手アカがあると、その汚れたガラス表面で光が屈折して、そのさまがきれいに見える。ガラスの向こうにある風景などを写すことには、関心はまったく向きません。
水も同じで、水面に生じる反射体それ自体が好きで、その面だけを写真に撮りたくなります。水面に映り込んでいる木々や雲、またはぼんやり透けて見える水底の様子には惹かれることはありません」