“小選挙区制生みの親” 後藤田正晴
“カミソリ後藤田”とも評され、多岐にわたる政治課題に辣腕を振るった後藤田正晴。内務官僚の出身で、警察庁長官を経て政界に転じ、自治大臣や国家公安委員会委員長、官房長官などを歴任した自民党の実力者だった。小選挙区制の導入には、この後藤田の強い危機感が大きく影響していた。
小選挙区制が導入に向けて大きく動き出すきっかけとなったのは、1988(昭和63)年に発覚した「リクルート事件」だった。値上がり確実な未公開株が政官界の多くの人物に配られた戦後最大級の疑獄事件だ。元官房長官の逮捕にまで発展し、国民の政治不信は頂点に達した。危機感を強めた政権政党の自民党が、1989(平成元)年に立ち上げたのが、政治改革について議論する党内組織「政治改革委員会」だ。その会長を務めたのが、後藤田正晴だった。後藤田は政治改革の必要性を訴えた会合の中で、次のように述べている。
「政治がなくなる、政治がなくなるおそれがある。小選挙区というのは当然、我々としては考えなきゃならない制度だ」
ファイル37冊と69束に及ぶ後藤田の「未公開メモ」
なぜ「政治がなくなる」と述べるほどの強い危機感を、後藤田は抱いていたのか。その手がかりとなる未公開の極秘資料を、今回私たちは初めて入手した。資料を保管していたのは後藤田の長男である尚吾氏。当初は第三者の目に触れることを強く固辞されていたが、再三の交渉の末、「父の考えを少しでも多くの方に知って頂けるなら」と、取材にご協力を頂くことができた。後藤田が綴っていたのは、2種類のメモだ。1つが1日ごとの予定が記されたA4の紙の余白に会合の内容や感想などを書き記したメモ、もう1つが日々の考えや政治構想などをまとめて綴ったメモの束だ。予定表のメモはファイル37冊、メモの束は69束にも及ぶ。これらの膨大なメモに、後藤田は政治のあるべき姿や理念などを密かに書き留めていたのだ。時代の激しい変化と、それに対応できない政治体制への後藤田の強い危機感が、メモには綴られていた。これらのメモから浮き彫りになる後藤田の考えを、放送では未使用の記述も含めて辿っていきたい。
「どうしようもない政治の閉塞状態。これ以上現状を放置することは許されぬ。限界に達している。みそぎだ!でなくばもたない」
政治改革委員会が設立された1989(平成元)年には、ベルリンの壁が崩壊。国際社会では東西冷戦の時代に終止符が打たれ、イデオロギー対立の時代は終焉した。
翌1990(平成2)年には、バブル経済が崩壊し、日本の「成長神話」は終わりを告げる。「所得倍増」や「国土の均衡ある発展」など、戦後一貫して経済重視の政策を掲げてきた自民党政権だったが、右肩上がりの経済成長を前提に、その果実を配分していく調整型の政治は、過去のものになろうとしていた。
しかし、依然として永田町では、「55年体制」と呼ばれる政治状況が30年以上続いていた。政権政党である自民党に、その約半分の勢力の社会党が対峙する政治状況だ。冷戦終結後も、自由主義陣営対社会主義陣営という、東西冷戦の日本国内への反映とも言われた旧態依然とした政治状況が続いていたのだ。メモに後藤田はこう綴っている。
「与野党の惰性に流れている現在の状況、すなわち政権政党のオゴリ、油断、ニゴリ、野党の無気力、政権担当能力の欠如、その気力の喪失、更に言えば傷口のナメ合い」
「金属疲労を起こしているとの認識」
「私は二大政治勢力の対立による政権交代が行われる体制になるのが望ましいと考えている」
「政権交代による政治の緊張感-二大政党対立を視野に入れる」
「昭和30(1955)年以来今日まで続いている我国の政治のシステムが固定化して内外の急激な情勢の変化に対応出来ず、政治が活力を失い、無責任の政治情況が続き、その間、国民の信を失う腐敗事件の繰り返し、このような政治の現況を打破して政権の交替、そして政治の緊張感の回復をし、議会政治の活性化をするねらいがわれわれの政治改革の目的」
「革命的抜本的改革を断行する以外、今の政治が抱える矛盾を解決する方法はない」