「線」や「構図」のオリジナリティ
会場を巡って、浴びるように北斎の絵を観ていく。500点に迫る膨大な作品を、よくぞ整理しひとつの展覧会にまとめてくれたものと、その手際にまずは感嘆させられる。時代を経るごとに作風が刻々と変化していくのを体感できるのはおもしろい体験だ。
本気で森羅万象を描き尽くさんとしたのかと思わせる手業の豊富さにも、改めて圧倒される。それでいてどの作品からも、いかにも北斎だなと思わせる雰囲気が漂い出ているのは不思議。この「らしさ」、いったいどこから発せられているのか。
虚心に観れば、ひとつには「線」だろうと思い至る。1本ずつの線の太さ細さ、勢い、滲み具合によって、北斎はあらゆるものを描き分けようとしている。考え尽くされたうえで引かれたのだろう線を、目で追いかけていく。すると、その線によって表された事物の固さ柔らかさ、手ざわり、そこに宿る感情までも、ありありと感じ取れる。
なんとも雄弁な「線」が画面の中でどう集散しているか、それがすなわち構図ということになる。そこに着目してもあらゆる絵で北斎ならではの刻印が押されていて感じ入る。
たとえば「為一期」の作品である「冨嶽三十六景」シリーズ。富士の山容が画面のどこかに入っているのだけれど、その大きさや稜線が織りなす形は「実際の景色ではどう見えるか」とまったく関係がない。絵柄としての最適解をつど北斎が割り出しており、画面上では富士の姿だろうと何であろうと、あらゆるものが構成上の要求に合わせ自在に変形されていくのだった。
北斎の描くことに対する強い執着と探究心は、生涯にわたって持続された。没する直前にも「あと10年、いや5年でも命が持てば真に画工となれたのに」と述べたとされる。まさに「画狂」と呼ぶにふさわしい。
存在が巨大過ぎるゆえ、「全貌を明らかにする」という触れ込みの今展でもその一端しか眺められないかもしれないが、いま考えられる最大規模の回顧展であることはまちがいない。日本絵画史上のスーパースターの凄みを肌身で感じてみよう。