クリエーターにとってリキの入る元旦広告で、なぜ?
私はいくつか外資系企業の広告を担当したことがありますが、企画や表現の段階に入るとグループインタビュウで篩(ふるい)に掛けられます。多国籍企業は世界に進出するにあたり文化や習慣の違いを慎重に考えて戦略を練っていきます。(それでも、昨年問題化した、プラダのキャラクターのような配慮のない広告も出てくるのですが。)
最近では、日本の大手企業でもインターネットで広告を試験的にうち、反響を見て修正していくと聞きました。視聴者がどう感じるか。広告はお見合いみたいなものですから第一印象はとても重要。出稿されるまでには通常多くの目を通過(企業の宣伝部、担当役員、媒体社 制作関係者、媒体倫理規定、法律のチェック)していきますから、どこかでチェックが入るものです。「女の時代、なんていらない?」の広告も、この段階でどこからも異論が出なかったのか、首をかしげます。
これが、元旦広告だったのだから、なおさら困惑してしまいます。クリエーターにとって正月元旦の広告を制作するのは特別にリキが入ります。企業の年間施政方針演説みたいなものですから商品広告に対峙するのとは姿勢が違います。コピーは企業の新年宣言書。理念をライターは咀嚼し、了解を得て活字になる。
制作現場や責任者に第二の性、女性が1人もいなかったのでしょうか。話題になったルミネの広告やキリンビバレッジの午後ティー女子も制作現場に女性スタッフがいれば陽の目を見なかったでしょう。発想すらできません。
優れた広告とはなにか
優れた広告は幸福ホルモンを産みだすもの、というのが私の持論です。楽しいことに触れると脳内には幸福ホルモンといわれるオキシトシンが分泌されるそうです。広告作りの目的は生活をより豊かにして楽しんでもらうことですから、あるCFや紙面に触れてオキシトシンが分泌されて“欲しいな”“買おう”と行動してもらえれば成功。不愉快な気分になるとしたら失敗。企業が後者を望む訳ありません。
活躍するキャリア女性を主役とするCMや、夫が家事育児をするCMも見受けられるようになっています。単なる大向こう受けを狙ったものでないことを願いますが、しかしこの手の広告が増えると世間の常識は感化されていくので良い傾向と観ています。広告の威力は深く静かに浸透するので大切ですし、また怖いものでもあります。
2017年に西武・そごうは樹木希林さんに「わたしは、私。」の広告で「年齢を脱ぐ。」「冒険を着る。」と言わせていました。このセリフには“感動”でした。安藤サクラさんはどんな「私」を主張したいのでしょうか。
「『女の時代』よさようなら、『私の時代』よこんにちは」、と西武・そごうは堤西武に決別したのです。トランプ氏みたいな自分ファーストの「わたしは、私。」では困りますよね。