「この次に生まれてくるときは猫になるんじゃないかというくらい“粗(あら)”が好き」と語るのは、発酵学の第一人者・小泉武夫さん。“粗”とは魚をおろした後に残る頭や目玉、骨など、本来は捨てられる部分。小泉さんは粗の複雑玄妙な旨みに幼少期から魅せられてきた。
「小さい頃から、魚の粗を食べる現場をずいぶん見てきました。例えば、食卓に平目や鰈(かれい)の煮付けがあるとします。祖母や親父は身を食べると、骨を丼に入れて熱湯をかける。これを『骨湯』と言います。骨からコラーゲンがピュルピュルと出てきて、コクがあってとても美味しい。幼心に『旨いもんだなあ』と思ったものです。本書は粗の魅力を発信するために執筆しました。小説の形をとったのは物語の力で読者を引き寄せたかったからです。粗についての随筆を書いても『アラ、何だこれは?』と思われたんじゃないかな(笑)」
このたび小泉さんが上梓した小説『骨まで愛して 粗屋五郎の築地物語』は、“粗”が主人公。築地一の鮪捌(まぐろさば)き職人・鳥海五郎は粗好きが高じ、遂には粗料理専門店「粗屋」を開店する。粗の魅力と五郎の人柄に惹かれた人々が織り成す、明るく朗らかな人情物語だ。
「五郎は“下ごしらえ”のできた人間です。福島県いわき市で漁師の家に生まれ、中学校を卒業と同時に、築地の鮪仲卸会社に就職。鮪捌き職人の厳しい世界に入り、その道を極めた。心も腕も磨いているから人間性が素晴らしく、だから五郎の周りに人が集まるのでしょう。私は以前、『猟師の肉は腐らない』(新潮文庫)、『うわばみの記』(集英社文庫)という小説を書きましたが、共通するのは登場する男が魅力的であること。私は魅力的な男たちの世界に憧れがあるみたいです」
五郎の粗料理のレシピは368にものぼり、「河豚(ふぐ)の鰭(ひれ)酒」「烏賊(いか)の腸煮」など字面を追うだけで実に旨そう。そこにペナペナ、コピリンコなど独特のオノマトペが加わり、さらに食欲をそそられる。
「粗を主人公にしたのは、今の世の中に対する皮肉でもあります。高級割烹で魚を食べたら1食数万円もかかるのがザラですから。一方、五郎が営む粗屋のお客さんが支払う平均価格は3750円。いちど計算したことがあるんです(笑)。その安さで粗料理をふんだんに食べられる。〆に粗の茶漬けもいいし、お酒が好きなお客さんなら鰭酒だね。
私自身も料理が大好きで、『人の粗探しより、魚の粗を食え』という具合に寝ても覚めても粗のことばかり考えています。得意料理は『鮭(さけ)のどぶろく煮』。これがまた旨いんだ。鮭の頭を2日ほど煮込んで柔らかくなったところに、酒粕を入れ、食べるときに上から鮭の頭を押さえつけると、ドロロロと溶けていく。目玉の美味しさは大変なもので、口に入れるとコラーゲンのブヨンブヨンがトロントロンになる。ゆっくり味わいつくした後にゴクリンコンと飲みこむわけです」
本書は粗料理の美味しさだけに終始せず、環境学、民俗学、応用微生物学、はたまた伝統芸能の世界にまでテーマを押し広げ、粗の魅力を掘り下げている。
「築地から移転して、今は豊洲市場になりましたが、食品廃棄物の処理に年間あたり数億円も掛けていると聞きます。『骨まで愛して』では、五郎の心意気に共感した産廃業者のおやじが、粗を混ぜた堆肥を使って有機野菜を栽培する会社を設立します。捨てる粗を発酵させて土に還し、循環させれば、水に沈むほど旨みが濃いトマトができる。そういう価値観を、より多くの人に知ってほしいですね。日本人は本来、世界でいちばん魚を食べる魚食民族でした。その面子にかけて、やっぱり粗まで食べなきゃ駄目なんですよ」
こいずみたけお/1943年、福島県の酒造家に生まれる。東京農業大学名誉教授。農学博士。専門は発酵学、醸造学、食文化論。著書に『不味い!』『発酵は錬金術である』『食あれば楽あり』などがあり、単著で143冊を数える。