1ページ目から読む
3/4ページ目

「ファースト・マン」たらしめた資質とは?

 そんな苦行の最中にあって、家庭にいる時よりもはるかに冷静に、かつ的確に振る舞うことができるのが、ニールという男を「ファースト・マン」たらしめたずば抜けた資質であり、同時に彼が背負った十字架でもあった。

 ニールは娘を喪う前から孤独だった。彼が最も自分自身でいられる実験機や宇宙船での時間を、愛する人々と共有することは決してできなかったからだ。彼は日常にあっては、自らのぎこちなく不器用な有り様を家族にさらし続けるしかない。ライアン・ゴズリングの、穏やかであると同時にどこか諦念を抱くかのようなたたずまいは、観る者にニールの孤立を理屈抜きに実感させる。

©Universal Pictures

 そんなニールが唯一、「死と隣り合わせの時間」を共有できる可能性のある相手は、仲間の宇宙飛行士たちを除けば、実のところ死者しかいない。

ADVERTISEMENT

 ニールは娘と死別することによって初めて、愛する者を自分の世界に迎え入れることができたのではないか。月面への旅は、娘と最も親密に、多くの時間を共有できるひとときではなかったのか。それを決して「幸福」と呼ぶことはできないだろうが。

「ラ・ラ・ランド」に続く監督と主演のタッグ

 監督のデイミアン・チャゼルとライアン・ゴズリングの組み合わせは、大ヒット作「ラ・ラ・ランド」に続くものだ。チャゼルは「ファースト・マン」を「ミッション遂行の物語」として捉えたが、ゴズリングは「ニールの喪失の物語」と解釈していたという。結果的にどちらの思いが前面に出たかは、映画を観れば明らかだ。たぶん、チャゼルは、「ラ・ラ・ランド」に登場したフリージャズのセッションのように、自然な形でゴズリングに主導権を譲り、彼の演技を支える側に回ったのだろう。

©Universal Pictures

 この映画全体を彩る切なさや主人公の性格設定は、「ラ・ラ・ランド」よりもむしろ、異なる監督による「ブレードランナー2049」に近い。そして驚くべきことに、「2049」と「ファースト・マン」のラストシーンは、まったく同じシチュエーションで展開される。偶然の産物だろうが、それだけでは説明しきれない「ゴズリングの磁場の強さ」をも実感させる。「映画は監督のもの」という固定観念を覆し、その存在が自然と作品全体のトーンを決定づけてしまう――。ゴズリングはそんな稀有な資質を備えた役者ではないか。