どこまで現実のアームストロングを反映しているのか?
ゴズリングの演じるニールは、どこまで現実のニール・アームストロングを反映しているのか。映画の価値は本来、現実の再現度によってではなく、現実をモチーフとして人間の真実をどこまで掘り下げたか、ということで測られるべきものだ。だが、現実のアームストロングも、作中同様に自己主張を嫌い、感情表出が下手で、どこか浮世離れした人物だったことは疑いない。
作中、アポロ11号の発射前に行われた記者会見で、月面を最初に目指すことの感想を問われたニールは「I’m pleased(うれしい、満足している)」と愚直に繰り返す。今作のベースとなった伝記によれば、現実の会見でもアームストロングは月着陸への意気込みを聞き出そうとする矢継ぎ早の質問に対して「感情の読めない答え」を繰り返し、ある記者は彼のことを「陰険な秘密主義者」と評したほどだった。
物語の重要な鍵となる「ニールが月旅行に持ち込んだささやかな私物」についても、実際にはアームストロングが記念品として最も重視していたのは、「ライト兄弟が作った史上初の航空機の木片」であり、他に持ち込んだのは妻と母に贈るアクセサリーぐらい。2人の息子に、「月旅行のおみやげ」になるような品を与えることさえしなかった。
その一方でアームストロングは、月面から戻った直後の1969年10月にロンドンを訪れた際、柵にはさまれて警官に抱き上げられた2歳の幼女に歩み寄り、群衆の面前でキスをしている。娘のカレンが亡くなったのも2歳の時だった。
果たして現実のアームストロングは、作中のニールのような切ない思いを娘に対して抱き続けていたのか。私が思い起こすのは、室生犀星が愛する子どもの葬儀について綴った「靴下」という詩だ。
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毛糸にて編める靴下をもはかせ
好めるおもちやをも入れ
あみがさ、わらぢのたぐひをもをさめ
石をもてひつぎを打ち
かくて野に出でゆかしめぬ。
おのれ父たるゆゑに
野辺の送りをすべきものにあらずと
われひとり留まり
庭などをながめあるほどに
耐へがたくなり
煙草を噛みしめて泣きけり。
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深い悲しみを知る内面と沈着冷静な外面の両立。それこそが、真に困難な局面に立ち向かうための「ライトスタッフ(正しい資質)」に他ならない――。ニール・アームストロングとは対極にあるような、空疎で自己主張ばかりが激しい政治的指導者が目立つ時世にあって、作り手たちは、そのことも静かに訴えたかったのではないだろうか。