「メディアはなんだかんだ言ってるけど、話は進んでいる」
歯舞群島・多楽島二世で、62歳の芦崎秀樹さん。昨年の多楽島墓参で二世として初めて団長を務めた人である。芦崎さんの見立てはこうだ。
「ロシアが厳しいことを言うのは、交渉を有利にするためじゃないのか。実際、交渉は決裂していない。メディアはなんだかんだ言ってるけど、話は進んでいるんだよ。ロシアに返す気がないなら、とっくに決裂している」
たしかに、それが外交というものかも知れないと、ド素人の筆者も思わずうなずいた。
北方四島から追い出された元島民と後継者でつくるのが「千島歯舞諸島居住者連盟」、その中核が根室支部で、今の支部長が宮谷内亮一さんである。元島民のスポークスマンとして、日ロ首脳会談のたびに記者会見に引っ張り出される有名人でもある。
暖かな昼下がり、根室でも雪解けが進んで道路のあちこちにできた水たまりを避けながら、郊外にある宮谷内さんの自宅を訪ねた。宮谷内さんは記者会見で、領土交渉に対する感想や元島民としての気持ちを語ってきたのだが、一族のことを深く語ったことはない。筆者はいつか家族のヒストリーを書きたい、と思っていた。
焼けた重油の匂い――国後島から脱出するときの恐怖の記憶
宮谷内さんは1943年1月、国後島留夜別村で生まれた。父方のルーツは現在の石川県穴水町にある。当時、19歳だった祖父の作次郎さんが単身、国後島に渡ったのが1908年のこと。留夜別村でサケマス、コンブ漁に従事し、石川県から家族を呼び寄せ、やがて2隻の船を持ち、財を築いた。留夜別漁業会の組合長を務めたこともある。
順風満帆だった宮谷内一家の運命も、他の島民と同じく、1945年8月28日からのソ連による四島占領で暗転した。船を持つ島民はソ連兵の監視が手薄な夜中、密かに脱出し、対岸の羅臼や根室を目指した。それは命がけの賭けだった。
「ソ連兵に撃たれた人もいたからね」と宮谷内さん。それでも、作次郎さん以下一家9人で脱出を決意した。45年12月の夜、留夜別村の船着き場からポンポン船を出した。
幼かった宮谷内さんの記憶に唯一残る恐怖の匂いがある。それは焼けた重油の匂いだという。一家9人が船底に敷いた網やムシロの上に横たわり、息を殺した。だが、油の強い異臭をかいで宮谷内さんが泣き叫ぶ。ソ連兵に気づかれれば、一巻の終わりだった。
「あの時、泣くな、泣くな、とボコボコにたたかれた。泣き止んだけども、私の中に恐怖の感情が残っている。長い間、トラウマになったと思う」