『夢も見ずに眠った。』(絲山秋子 著)

 この物語は、結婚と離婚を経た男女の二十五年の歳月の瞬間瞬間を切り取ったお話だ。無駄のない筆致の切れ味が気持ちよかった。

 夫は結構旅をしている。夫婦とも土地の名称とか歴史にこだわるタイプだが、夫のほうが性質としてより顕著に見える。地名の読み方に不思議を感じたり、土地の形状やそれらに制限を受けた人々の歴史的な営みを考察したり。常に高い解像度で土地を眺めている。

 だが、おびただしい数の地名を通過する夫の様子に、私はまるで盲人が象をなでるかのような見通しのきかなさを感じた。なんだかこの夫がどこにいるのか、どこに向かっているのか、全然わからない気がしたからだ。それは夫が自分自身をあまりにも語らないからかもしれない。例えば単身赴任中の妻から供給されないセックスや、闘病中のうつの苦しみなどの、俗っぽい感想などがほぼ出てこない。鮮やかな感情を幾重にも梱包して注意深く距離を置いて生きている感じ。そんなもやもやするような読書体験が結構長いこと続くが、あるところで、とつぜん、「あ!」と視界が開ける瞬間がある。

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「山にはなにもかもがある!(略)見えるものも見えないものも、爆発的に増えて生態系を破壊する種も絶滅した生物も、後に主流となる突然変異もなにもかもが備わっていたのだった」

 これを読んだとき、この夫はこれでいいし、というかついでに言うなら読んでいる私も完璧なのだと思えた。

 あらゆるものがすでに完璧に存在しているから、どういう生き方を選んでも、どう死んでもすでに完璧以外にはなりえない。それにこの夫は突然気が付いてしまうのだ。すごいと思った。

 この視界の開ける感じをまた味わいたくて、二回目を読み始めると違う感想が出てきた。私が妻ならこんな夫はいやだというのがそれだ。大事な話ができる雰囲気に決してならず四十歳過ぎてる夫に「たけちばちゃんばち(竹芝桟橋)」とか言われたら結構イラつく。だが、当初妻はこの夫を選んだわけで、それは妻自身が母との確執などの、自分の人生の「大事なこと」に直面せずに済む環境で生きたかったからかもしれない。

 すべてが土地をめぐるトリビアおしゃべりに回収されていく、そういう夫婦だったから憎しみもなく別れることができた。憎しみがもてるほど激しい感情を抱かずに生きていくことを選んだ人々が彼らだともいえる。そしてどんなふうに人生を過ごしてもそれはそれで「ありとあらゆるものの一部」をなしていて、完璧なのだ。この夫のようにそれに気が付く人は勝手に気が付くし、この本によって気が付かされたのは私で、そしてあらゆる人に気づきの機会が用意されている。だからこの本は「あらゆる人・もの・ことを全肯定」する装置がついている、すごく遠回しにやさしいお話だと思った。

いとやまあきこ/1966年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。2003年「イッツ・オンリー・トーク」で文學界新人賞を受賞しデビュー。04年「袋小路の男」で川端賞、06年「沖で待つ」で芥川賞、16年『薄情』で谷崎賞。『離陸』など著書多数。

おかえり/1977年、埼玉県生まれ。慶應義塾大学卒業。出版社勤務を経て、作家業に。著書に『境界の町で』『自分を好きになろう』。

夢も見ずに眠った。

絲山秋子

河出書房新社

2019年1月26日 発売