人間、鏡がなければ自分の顔も見えないし、比較する相手がなければひとりよがりにおちいりがちだ。
ということは、この地球に暮らす人間について真面目に考えたいのなら、「他の星に暮らす生き物」にも目を向けるべきであるということになる。
理屈の上ではそうなのだが、でもしかし、他の星に生き物などは、いるのかどうか。夜空をいくら見上げてみても、それらしい姿もないようである。
宇宙に生命が満ちているなら、我々がまだそれを見つけられないでいるのはなぜなのか?
というこの問いは、発想者の名前をとって、フェルミのパラドックスと呼ばれ、本書はこの問いの歴史や広がりを広く考察していく。
我々が、他の星の生き物を観測できるようになるためには、大きく二つの条件がある。
まず、地球以外でも生命に生まれてもらわなければどうしようもない。
そうして、そこで生まれた文明が、ある程度持続してもらわなければ困る。宇宙の時間で百年などは一瞬だから、まばたきする間に見逃すような期間しか持続しない文明などはつい見過ごしてしまいかねない。
生命が生まれるかどうかは、物質の性質の話であり、文明が持続するかは、社会的な問題となるはずだから、本書が扱う範囲は途方もなく広い。
まず前者、この宇宙の歴史を通じて人間はひとりぼっちなのかという問いに対する答えは、近年大きく変化してきた。
以前はその存在が疑われていた、「太陽以外の恒星の周囲をめぐる惑星」が次々と発見されたことが大きい。
燃えさかる恒星ではなくて、惑星ということならば、生き物がいてもよいのではという気持ちがしてくる。近場の金星や火星ではダメだったとはいえ、銀河に存在する惑星が膨大な数にのぼるとなれば、かなり小さな確率でしか起こりえないできごとも、宇宙のどこかではおこっていないとむしろおかしい、ということになる。
問題は後者、文明は一般にどの程度長持ちするものなのかということである。人間のそう長くはない歴史を見ても、文明の崩壊というものはなんだか宿命づけられているように思える。今このときにも、多くの生物種が地上から消え、気候の振れ幅は大きくなり、資源に関する不安が増し続ける状況にある。
客観的に自分を眺めるためには、外からの視線が必要である。なにもそれは本当にメッセージを送ってくる異星人でなくともよくて、他の星の生き物を想像することであってもよい。
我々は今のところ、異星の文明に出会っていないが、文明をながらえなければ、その機会自体がなくなり、それは先方の文明にとっても、相手を失うことにつながるのである。
Adam Frank/ロチェスター大学天文学教授。ナショナル・パブリック・ラジオのブログ13:7 Cosmos & Cultureの共同創設者で、ラジオニュースAll Things Consideredのコメンテーター。
えんじょうとう/1972年、北海道生まれ。作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『文字渦』など。