重松清さんの最新作は、〈世界の終わり〉に魅せられた子どもと対峙する父親を描く、現代の黙示録だ。
ニュータウンの中学校で、給食に毒物が混入される無差別殺人事件が起きた。犯人は14歳の少年・上田祐太郎。この事件は世間を震撼させたが、犯人を“ウエダサマ”と神格化する者も現れた。それから7年後、社会復帰した上田は〈世界の終わりを見たくはないか〉と呼びかけ始めた――。
「本作を読んで、平成前期に多発したニュータウンの問題や少年犯罪など、実在の事件を想起する人がいるかもしれません。小説は事件の余韻や予兆を描ける。起きてしまった事件の余韻を湛えながら、また同じような事件が起きるかもしれないという予兆を感じる小説が僕は好きだし、そんな小説を目指しています。
実は雑誌連載時は、上田が使う毒物は酢酸タリウムという実在の殺鼠剤でした。改稿する際、最後の最後でワルキューレという架空の毒物に変更したんです。世界を終わらせることのできる『観念』を持ったとき、僕たちはどうするか。ワルキューレに変えたときに、実在の事件をなぞる小説ではなく、僕の目指しているものに少しは近づけたんじゃないか、と自分なりに手応えを感じました」
上田の社会復帰と時を同じくして、主人公の清水は40過ぎで結婚し、妻の連れ子である晴彦の父親になった。晴彦は前の中学校で酷いいじめに遭っており、再婚を機に一家は件(くだん)のニュータウンに引っ越す。しかし転校先で晴彦は毒殺事件の犯人と顔が似ていると噂になり、近隣では不審事件が相次いで発生。街に物騒な空気が漂う中、晴彦は「友達ができた」と微笑んだ。清水は義理の息子に恐怖さえ感じながらも、“父親”になろうと模索する。
重松さんは過去にも『幼な子われらに生まれ』(96年)で義理の父娘の葛藤を描いた。血の繋がりを取り払ったとき、父親を父親たらしめるものは何なのか?
「血縁のあるなしにかかわらず、父親は“なるもの”だと思います。自明のものとして与えられるポジションではなく、僕たちは何らかの形でお父さんになっていくのでしょう。『幼な子』の主人公には前妻との間に実の娘がいて、義理の娘に背を向けても、その視線の先には実の娘がいるというエクスキューズがありました。僕は、小説でも現実でも、目をそらした後に何を見るかが大切だと思うんです。例えば、昭和のお父さんが家族から目をそらした先には仕事があった、というように。でも今回はいい父親になろうと、目をそらすまいと決めて始めた親子関係が実は……という物語です。そういう意味では清水を追い詰めているし、彼に逃げ場所を置きたくなかったのかもしれません」
本作は雑誌連載から10年を経て単行本化された。長い熟成の月日を要したのはなぜか。
「連載が終了してからしばらく冷却期間を置いて、改稿に取り掛かろうかと思った矢先に東日本大震災が起きた。リアルな〈世界の終わり〉を見て、この言葉に対して責任を持つだけの強さが必要だと思いました。そして何度も被災地を取材し、震災について書きながら、〈世界が終わるって何だろう/終わりかけた世界から始まるって何だろう〉と考え続けました。その後、心臓の手術を受けたり、大学で教えるようになったりして、それも含めて、やっと『向き合える』と思えたんです。震災について一行も書いてはいないけど、被災地をずっと歩いてきたことが、どこかに息づいているんじゃないかな」
しげまつきよし/1963年、岡山県生まれ。出版社勤務を経て、執筆活動に入る。91年『ビフォア・ラン』で作家デビュー。2001年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞。