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レジェンドたちがパリーグで打ち立てる金字塔の数々

ロッテオリオンズ時代の落合博満 ©文藝春秋

 園川が活躍をし始めた1986年のロッテは、4番に落合博満がおり、5番に山本功児、6番に愛甲猛が並ぶオリオンズ感の強い打撃陣が敷かれ、翌87年は落合を目玉とする中日とのトレードで組長として愛される牛島和彦や救援が救援になってない伝説の中継ぎ平沼定晴がオリオンズに運命的な合流を果たすわけであります。

 そのオリオンズ的潮流に園川が応えないはずもなく、南海戦で園川は前人未到であり現在もなお破られていない恐るべき記録である「13失点完投負け」という金字塔を打ち立てることになるのです。繰り返しになりますが、燃え落ちる園川も園川ならロッテもロッテであります。

 この記録はパ・リーグの、いや、日本球界、世界の野球における誇るべき数字であり、野球を観るものすべてに「ああ、いろんな嫌なこともあるけど、俺もまあこれでいいんだ」という夢と感動を与える象徴的な出来事であったことは間違いありません。投げ出したくなるような状況で投げ出したような結果を出し続ける、そんな園川に勇気づけられたという人は物凄く多いんじゃないかと思います。

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 その後も順調に園川は失点を重ね、私が高校生のときに川崎球場へ南海戦を見物に行った際に序盤に四死球も挟まず8連続被安打で6失点大炎上、しかし何事もなかったかのように6回途中まで続投し、きっちり9奪三振という貫禄を見せつける園川。ほんと何度も書きますが投げさせるロッテもロッテなら投げる園川も園川です。感動しかありません。見事な10失点で悠然とマウンドを降りるというレジェンドを目撃し、プロ野球観が変わりました。ああ、これがロッテなんだと。ロッテというのは、こういう魅力的な野球が持ち味のチームなんだと。南海ファンとして勇躍敵地に乗り込んだはずが、園川一美という投手に魅入られ、いつまでも園川を見ていたい、また園川を見にきたいという気持ちへと移り変わっていくのです。

驚くべきパークファクターのある環境でしたから

 大人になったいま思い返せば、川崎球場という狭いすり鉢状の球場で、少しライト方面への風が吹けば振り遅れてこすった初芝清の打球でも無駄に高いフェンスのあるライトスタンドに吸い込まれてホームランになるという驚くべきパークファクターのある環境でしたから、もしもこれが「加藤球」で札幌ドームを本拠地にしていたのなら、奪三振キングである園川も実は500勝投手になったんじゃないかとすら思います。古き良きパ・リーグという時代が、園川を呼び、園川を園川たらしめた、私はそう思うのです。

両翼87mだった川崎球場。ロッテオリオンズが本拠地としていた ©文藝春秋

 黒星は黒星を呼び、1988年には貫禄のシーズン15敗を達成(10勝)。それに飽き足らず、1993年には自身2度目となる15敗(9勝)をマーク。球史に轟く最多敗戦投手としての地位を不動のものとし、園川はパ・リーグにおける独特なポジションを確固たるものとします。「先発ピッチャー、園川」と発表されるたび、球場内では嫌な予感しかしない雰囲気が漂うのは園川の真骨頂と言えるでしょう。

 そして、1989年には前人未到、空前絶後の「規定投球回到達者における、防御率6点台」という偉業を達成します(防御率6.10、7勝12敗1セーブ)。いくらなんでも防御率6点台はヤバいだろ。そんな当時の野球ファンの常識は通用しませんでした。何しろ園川ですので、仕方がないのです。

 いや、現代野球では投手の防御率などアテにならないかもしれない。やはりWAR(Wins Above Replacement; セイバーメトリクスなど野球統計学において、代替可能となる標準的な投手に比べてどのくらい勝ち星をチームにもたらしたかの客観指標)で計測するべきだ、fWARやrWARを参考にして年代別の投手の傑出度を比較するべきだ、という科学的な人たちはたくさんいます。私もそう思います。