十数年の月日の果てに「クソリプおじさん」に
これは中高年が、急にネットに乱入してきたのではない。そうではなく、2000年ごろに楽しくネットで遊んでいた若者たちが、十数年の月日の果てに「クソリプおじさん」になったのだ。自由なインターネットであっても、やっぱり人は老い、自分が好き勝手やっていたことをすっかり忘れて、「今どきの若いものは……」と言い出すようになるのである。
もちろん、若いからといって何をやっても許されるわけではない。明らかにそれはまずいだろう、という言動に走っている若者だって少なからずいる。そういう若者には、ある程度の指導は必要なのかもしれない。
しかし問題は、「適切な指導」と「『今どきの若いものは……』のステレオタイプな説教」は見た目だけではほとんど区別がつかないということだ。そもそも「今どきの若いものは」論の上司だって、自分がステレオタイプで空虚な説教をしているとは夢にも思っていない。自分では適切な指導だと思いこんでいるのである。
では、言われた側はどう見分ければいいのか。ひとつのポイントとして考えたいのは、「指導」なり「説教」なりがいったいどのような論拠によって語られているのかを見極めることである。
「皮膚感覚」での指導は独善に陥りやすい
中高年には、いわゆる「皮膚感覚」でなんでも物語ってしまう人がたいへん多い。上司が「自分は若い社員を適切に指導している」と思い込んでいても、その論拠はたいていの場合、自分がなんとなく身につけたと思っている感覚的なものでしかないということだ。
先ほど私が紹介した「最近の新人は言われたことしかやらない」は典型的なそれである。記憶の中では、自分が新人だったころは言われないことも率先してやり、その中で自分は鍛えられて一人前になっていったと思っている。それは彼自身の皮膚感覚でしかない。皮膚感覚的なものは決してすべてが悪いわけではないが、多くの場合は独善に陥りやすい。
この独善さはテレビのワイドショーの司会者やコメンテーターの意見を見ていると、よくわかる。高齢の司会者が「昭和のころはみんなが助け合って犯罪も少なかったのに、日本は本当に凶悪犯罪が広がる社会になってしまいました」とまったく根拠のないことを口にする。殺人事件がもっとも多かったのは太平洋戦争が終わったころで、その後は緩やかな減少傾向が続き、現在では殺人事件の発生件数はピーク時の3分の1以下になっている。ただ20世紀後半にテレビという伝播しやすいメディアが普及し、凶悪犯罪の報道が増えたために、件数そのものが増えたように感じてしまっている。「皮膚感覚としての犯罪増加」なのだ。