“ドライ”な母の存在の大きさ
──矢方さんの乳がんを知ったことがきっかけで検診に行き、病気が見つかった人もいたと伺いました。
矢方 「人ごとじゃないと思って調べたら病気がわかった」という方がいるそうです。それを聞いた時は、「私がやってきたことは無駄ではなかった」とすごく勇気をもらいました。「病気が見つかるのが怖いから病院には行かない」という方もいらっしゃると思うんですけど、とくにがんに対しては、みんな関心が高い割に病院には行かないという人が多いので、少しでもそこを改善するきっかけになれたら、そんな風に思っています。
──乳がんをきっかけに、仕事やプライベートでは出会いが広がりましたか?
矢方 さまざまな年齢の友人がすごく増えました。乳がんになる前は、SKE48という場所でグループ活動をしていたこともあって、せいぜい10歳くらいの年齢差で、しかも女性だけという集団の中で生活していたのですが、乳がんになってからは50歳年上のおじいちゃん、おばあちゃんとおしゃべりする機会が増えたり、年齢が20~30歳離れている同性の方と、同じ病気を経験した「同志」として、治療などの話はもちろん、恋愛や趣味についても深く話をしたりすることも増えましたね。
──ご家族との付き合い方に、何か変化はあったんでしょうか。
矢方 そうですね。家族、とくに母がいたから、乗り越えてこられたと思う部分はすごくあります。乳がんがわかった時も、手術の時も、副作用でつらかった時も、いつも母が支えになってくれました。子どもの頃からドライで、図工の時間に作った作品に平気で「へたくそ」と言うような母だったんですが、小学校低学年の時にわたしが釘で「おかあさんありがとう」と書いた枇杷の葉っぱを部屋の隅にずっと飾ってくれたり、私がSKE48のオーディションに受かって名古屋で活動することになった後、一緒についてきてくれたり。芯の部分でずっと大事にされているのは感じていました。