「国会の正面玄関において逮捕されることを強く希望する」(中村喜四郎、平成6年)

 四半世紀前の3月11日、国会議事堂に激震が走った。正午に開会された衆議院本会議で、現職国会議員に対する逮捕許諾請求が26年3か月ぶりに可決された瞬間である。

「許諾を与えるにご異議ありませんか」

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 議長席の土井たか子がそう問うと議場には「異議なし」の声が大きく響いた。

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140日間、「完全黙秘」を貫いた

 それから4時間後、検察庁の前に土浦ナンバーの黒いセンチュリーが滑り込んだ。中から出てきたのは、中村喜四郎前建設相(当時・44歳)。田中角栄の元私設秘書にして、「反小沢」の急先鋒。平成初期に隆盛を極めた自民党経世会(同・小渕派)の中では金丸信に重用され、「将来の総理候補」とも呼ばれた建設族のプリンスである。

 埼玉県に支店を置くゼネコン66社の談合事件を巡り、中村は公正取引委員会に刑事告発を見送るよう働き掛け、その見返りに鹿島から1000万円を受け取ったとしてあっせん収賄罪に問われた。中村が東京地検特捜部に自ら乗り込んでから140日にも及んだ勾留中、自分の名前すらも明かさない「完全黙秘」を貫いたことは有名な話だ。

 中村は裁判で「1000万円」は政治資金とし、賄賂性を否定して無罪を主張。身の潔白を態度で示そうと、弁護士を通じて逮捕前に発したのが、冒頭のコメントだった。

平成6年(1994年)3月11日、検察庁に出頭する中村喜四郎(写真中央) ©時事通信社

茨城の有権者は「エリートの敵」を選び続けた

 憲法50条は国会議員の「不逮捕特権」を保障している。にもかかわらず、「検察の正義」が逮捕許諾請求なる伝家の宝刀を振りかざし、国民から選ばれた叩き上げの「大物」や「ホープ」を次々と斬り付けていく。試験で選ばれた司法エリートが永田町を舞台にして、そんな大立ち回りに明け暮れたのが平成という時代だった。

 中村は10年近い裁判闘争の末に実刑を受けた。だが、逮捕後も一貫して選挙に挑み、無所属ながら堂々の全戦全勝(現在14期)。地元茨城の有権者は「エリートの敵」を選び続けた。令和の幕開けと同時に議員勤続40年の節目を迎えた現在は、反自民に舵を切り、野党結集の知恵袋として蠢く。