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「あのころ加藤さんはインターネットに狂っていましたよ」(注1)。党の幹事長だった野中広務は後にそう振り返る。そんな野中はもともと加藤を高く評価し、将来を期待していた。おまけにふたりともに小沢一郎嫌いである。

 しかし加藤は「野中さんと私は感性が違う」(注2)と意識高い系の批判をしたあげく、加藤の乱に突入すると「野中さんは、戦いをする時はもっと冷静になったほうがいい。私は野中さんより修羅場をくぐっている」(注3)と大見得を切る。これがとんだ勘違いであったのは言うまでもない。

加藤は野中を「情弱」扱いするが……

 また加藤は、まるで「情弱」扱いするかのような言葉を野中に浴びせる。「今の世の中がわからないのか。私のホームページに入ってくる書き込みはすごいぞ。毎日、万を超える書き込みが入ってくる。あなたはそうした国民世論がわからないのですか」(注1)と。ネットこそ真実を映し出す、そういって愛国や歴史観に目覚めてしまうひとたちと大差はない。

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野中広務氏 ©文藝春秋

 当時の週刊文春をヒモ解けば、一本指でしかキーボードを操れず、独力ではメールも送れない森喜朗に対して、加藤は「eメールをブラインドで打って、ブラインドで変換はできます」(2001年2月1日号)という程度の話で、いまでいうネットリテラシーが高いとかなんとかといった類のものではなかった。

 なまじ自分でパソコンが使えたがために、見事に煽られる加藤。彼に対して野中広務は、ネットの世論なんて無責任なもので、そんなものに突き動かされて判断を誤るなと忠告する。しかし「加藤さんは僕の言うことをまったく聞かなかった。僕はIT社会は怖いと思ったし、つぶれていく加藤さんを見るのが忍びなかった」(注1)。そんな思いで、泣きながら加藤を潰す。

加藤の敗北に既視感があるのは、なぜだろう

 敗れた加藤は、永田町に居場所を失ったこともあって、「加藤の乱」を後押ししてくれたネットで繋がる市井のひとたちを頼る。しかし上手くはいかなかったようで、「メール支援者は、孤立していて、引っ込み思案で、人々を動員する能力などない人が多い。伝統的な後援会に集う人々とは全く違っていた。メールで自在に意見は述べるが、その意見に責任を持つ類いではない」(舛添要一のブログより 注4)と嘆くことになる。

 そうした姿は、地方に移住してブログで食っていこうとするひと、「ビジネス」「投資」といったカッコ付きのものを始めてしまうひと、告知ツイートのRT数は伸びたのに商品はまったく売れなかったと嘆くひと、弁護士に懲戒請求を送って反対に訴えられてしまうひと、そんなひとたちと重なりあってしまう。なんだか「ネットに踊らされる」ひとの原型でもあったようにも思えてくる。

 加藤が政治生命を失うことで、自民党は世代交代を早めたろうし、保守が意味するところを穏当なものから急進的なものに傾斜させる要因にもなったろう。そうした平成の政治史の転換点であるとともに、今にしてみれば「加藤の乱」とはネット・SNS時代の教訓めいた寓話のようでもある。

 

(注1) 『野中広務 権力の興亡』朝日新聞社・2008年
(注2) 魚住昭『野中広務 差別と権力』講談社・2004年
(注3) 山崎拓『YKK秘録』講談社・2016年
(注4)舛添要一のブログ「ネットの時代(1):「加藤の乱」・・匿名の支援」2018年08月27日