4、羽生の年間89対局、68勝
将棋界の棋戦はまず一発勝負のトーナメントから始まるものが大半なので、勝たないとそもそも対局数が増えない。平成12年度の羽生は七冠ロードをひた走る時期と同じくらいに勝ちまくっていた。その結果が年間89対局、68勝という数字である。
それ以前の年間対局数は米長邦雄が昭和55年度に達成した88局、勝利数は羽生が昭和63年度に達成した64が最高だった。羽生以前だと、昭和45年度の中原と昭和60年度の谷川が達成した56勝となる。
平成29年度の藤井があれほど勝ちまくっても73局、61勝だったのだから、羽生の記録は相当にハードルが高い。まず、複数のタイトル戦に出場するのが必須だ。平成12年度の羽生は6つのタイトル戦番勝負へ登場した五冠王だった。1日制のタイトル戦を13局、2日制のタイトル戦を19局指しているが、移動日などを考えると、年間200日は対局に費やしている計算だ。
さらに一般棋戦でも勝ち続ける必要がある。この年の羽生はオールスター勝ち抜き戦で16連勝を達成したが、勝てば勝つほど対局が増えるこの棋戦が休止されてしまったことは、記録更新実現への赤信号といえる。
ちなみに、理論上可能な年間最多対局、最多勝を計算してみると、およそ130局・100勝。すべての棋戦に出場し優勝、番勝負は全てフルセットとなればの話だ。さすがに現実感がなさすぎるので無意味な仮定だが、こうなるとまず対局を行うだけでも一苦労になる。特に2日制のタイトル戦や1日制でも持ち時間の長い対局だと、とてもその翌日に続けて対局を行う余力などは残っていないだろう。
そのような超過密日程に追われたのが平成3年12月の谷川だ。なんと月間13局指し、大晦日にも対局がついていた。その結果は12勝1敗と、とんでもない勝ちっぷりである。なお羽生の月間最多対局は平成12年の8月と9月にそれぞれ11局(9勝2敗と8勝3敗)を指している。
5、大山康晴の名人・A級在位連続45年
昭和の大棋士である大山が亡くなったのは平成4年。昭和47年に中原に敗れて名人を失冠してから、ついにその座へ返り咲くことはなかったが、名人挑戦権を争うA級の地位は常に維持し続けた。昭和23年度の第3期順位戦でA級に初参戦してから、最期まで一度もその地位から落ちることはなかったのだ。
A級の地位は一流の証明ともいえるステータスである。現在と比較して、順位戦の重さは想像以上に大きかった。「順位戦」と「新聞棋戦」という言葉の使い分けがあったほどである。順位戦の主催社も新聞社(朝日新聞・毎日新聞)であるにもかかわらずだ。
晩年の大山は「A級陥落、即引退」を公言していた。残留がかかったA級最終局の将棋会館は、大盤解説会に集まるファンで埋め尽くされていた。
大山最後のA級順位戦は平成4年の3月。相手の谷川に「初めて本気を出された」と言わしめる指し回しを見せて快勝。6勝3敗の結果でプレーオフに持ち込んだ。プレーオフではこの年の名人挑戦を果たす高橋道雄に敗れたが、「不世出の大名人」は最後までその偉大さを見せ続けたといえる。
名人・A級在位記録の通算第2位が加藤の36期、連続の第2位は谷川の32期だ。羽生は26期連続でA級に在位しているが、この分野での大山越えは遥か彼方である。
振り返ってみると、平成の将棋界はまさしく羽生の時代だったというしかない。令和の新時代には、棋界の旗手となるのは果たして誰だろうか。
※「藤井聡太の最年少タイトル奪取は可能か?――令和に達成の期待がかかる将棋記録トップ5」に続く