「父と寂聴さんの恋愛はまったく気づかなかった」
「父と寂聴さんは、私が5歳から12歳の頃に付き合っていました。私ののんきな少女時代の背景に父と寂聴さんの恋愛があったわけですが、まったく気づかなかった。両親が深刻な喧嘩をする姿は見たことがなかったし、母が父の女性関係についてなじったり、愚痴を言ったり、泣いたりすることもありませんでした。当時、母は一体どういう心境で暮らしていたのか、その謎を解きたい。それが大きなモチベーションでした。私にとって小説を書くという行為はいつも、自分の中の謎を解く試みです。今回もそうやって母について考えてみようと思い、笙子とみはるの視点から、完全なフィクションとして3人の関係性を書くことにしました。つまり、笙子という女性を造形することで、母の内面を読み解くということです。とはいえ本作を書くことで母の真実を解き明かしたとは思いません。現時点で、私が造形した母はこういう女だったということです」
妻と愛人でありながら、笙子とみはるの間には不思議な連帯感が生まれる。後にみはるが出家し、白木と男女の関係を絶ったあとも3人の交流は続いた。
「笙子の選択に対して『子供のために家庭を守った』という印象を持つ方もいるようですが、決してそうではないと思います。笙子は篤郎と別れずに最期まで一緒にいることを選んだ。一方、みはるは出家という手段によって篤郎から強引に離れようと決心しました。自分の意思で、自分のためにそのような生き方を選び取ったという点で、ふたりはとても似ています。篤郎に何かを期待していたのでも、誰かのために我慢していたわけでもなく、主体はあくまで彼女たちだったと思うんです」
いのうえあれの/1961年、東京都生まれ。89年に「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞を受賞し、デビュー。2008年、『切羽へ』で直木賞、11年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、16年『赤へ』で柴田錬三郎賞を受賞。