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なぜ町内に1本しかない「南高梅」が一大ブランドに?

 梅が同町で本格的に栽培され始めたのは江戸時代初期だ。隣の田辺市の一帯も含めて治めていた紀伊藩の支藩・田辺藩が、自生の梅しか育たないような山の斜面ややせ地の年貢を軽減し、梅の栽培を奨励した。

山頂まで梅畑になっている

 ちょうど江戸時代には庶民が梅干しを食べるようになっていた。「紀伊田辺産」の梅干しは江戸に送られて評判になる。明治以降は軍隊の常備食として需要が増えた。

 町内生産の多くを占めるのは南高梅(なんこううめ)だ。大粒で肉厚、ジューシー。ブランド品として知られる。

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 にもかかわらず、種から生えた南高梅は町内に1本しかない。

 南高梅は1902年、町内の故高田貞楠さんが見つけた。近所から買った梅の苗60本の中に、ひときわ大きな実をつけ、実には美しい紅のかかる木があったのだ。

青梅が実り始めていた
2月の満開時期にはこうなる(うめ振興館のパノラマ展示)

 それが1950年から5年間かけて、この地方で行われた梅の品種統一で選ばれた。選抜には県立南部高校の教師や生徒が参加したこともあり、南高梅という名称がつけられた。

 梅は、別の種類の梅の花粉でなければ実を結ばない木が多い。南高梅もそうだった。つまり、南高梅からは雑種しか生まれず、種を植えても別の新品種になってしまう。このため南高梅を増やすには、南高梅の種から育った雑種の木に、南高梅の枝を接ぎ木する。枝から育った部分が南高梅になるのである。

みなべ町は紀州備長炭の産地でもある

世界農業遺産にも認定されている

「ミツバチで受粉するため、梅畑には必ず他の品種が植えてあります。南高梅の木の下に、別の品種の枝をバケツに入れて置いておくこともあるんですよ」と、田中課長が解説する。

 かつて梅畑の多くは、紀州備長炭の原料となるウバメガシの林に囲まれた山肌にあった。ミツバチはウバメガシ林に棲息し、薪炭林と梅畑には共生システムがあったことなどから、国連食糧農業機関(FAO)が世界農業遺産に認定している。

 今では頂上まで植えられた梅山が延々と続く。梅畑の団地も造成されて300ヘクタールに及ぶ。町の中心部では、ほとんどの水田が梅畑に転作された。

延々と広がる梅畑の団地

 町じゅうが梅に覆われていると言っていい。