債務危機に陥ったギリシアで立ち上がった左翼政権に財務相として参画し、緊縮政策を押し付けるEU中枢と果敢に対決した経済学者、ヤニス・バルファキスの活躍は、この騒動の回顧録『黒い匣(はこ)』(明石書店)でつまびらかに語られるのでそちらを参照していただくとして、こちらは債務危機に一年以上先立ち、愛娘に、そして経済学を知らない普通の人々のために、最初は著者の母国語ギリシア語で書かれ、ついで各国語に翻訳された「資本主義経済とは何か」についての解説書だ。
主流派経済学者の一般向け解説書とはいえ、本書の主張は非常にオリジナルだ。19世紀の古典派経済学が想定し、いまも多くの人を拘束する経済観においては、まずは生産力があってそれが人々の生活を成り立たせ、消費されずに残った部分が未来に投資されて経済成長を生む、という具合だ。しかし20世紀には逆に、むしろ未来の成長への期待が投資需要を生み、それに引っ張られて現在の生産活動が引き起こされる、という新しい経済観が生まれる。余剰の蓄えよりも、未来の成長を信じての借金こそが、成長の原動力だ、と。この中で更にラディカルなヴィジョンを持っていたのがケインズだ。20世紀以降の主流派の多くがこの未来への期待を安定したものと考えようとしたのに対して、ケインズはその期待の不安定性に注目し、この期待が低迷し人々が不安に取りつかれることのうちに景気の収縮、不況、失業の原因を求めた。期待が大きければ投資が雇用を生み、成長を持続させるが、期待が萎めば投資は行われず、雇用は不足して失業が増え、成長も起きない。では何が期待を支えるのか? 銀行の貸し出し意欲であり、ほどほどに潤沢な貨幣供給だ。バルファキスはマルクスをも意識しつつ、この発想をより一層推し進める。
「未来が現在を引っ張る」「成長のためには程よい借金が必要である」「返せる範囲でなら借金しやすくなる程度の貨幣供給を国家は行わねばならず、ある程度は国家自ら借金による投資を行うべきだ」――この議論は素人目にはいま話題のMMT(現代貨幣理論)の「国はいくら借金をしても、自らが貨幣を発行してそれを帳消しにできる」という主張と見分けがつきにくい。本書では明言されていないが、政治的には過激な左翼だが主流派経済学の枠組を尊重する著者なら「国の借金による雇用の創出、成長が可能なのは完全雇用の達成までだ(その域を超えると、雇用の改善を伴わない悪性インフレとなる)」とするだろう。それに対してMMTなら「いくら金を刷ってもインフレとはならず、その分だけ投資と成長が生まれる」となる。その違いは小さなものではないが、もちろんより大きな対立は「借金=悪」とする緊縮財政主義との間にあることは言うまでもない。
Yanis Varoufakis/1961年、アテネ生まれ。2015年、ギリシャの債務危機時に財務大臣を務め、大幅な債務帳消しを主張、世界的な話題になった。現在、アテネ大学で経済学を教えている。
いなばしんいちろう/1963年、東京都生まれ。社会学者、明治学院大学社会学部教授。近著に『社会学入門・中級編』など。