『天皇のお言葉 明治・大正・昭和・平成』(辻田真佐憲 著)

 日本において天皇というのは、その全ての発言がもれなく政治的意味をはらんで受け取られるきわめて特殊な存在だ。宰相であっても公私の区別くらいはされるが、天皇にはその区別すらもない。人間であれば当然することがあるだろう私的な発言ですらも、ときに日本全体を揺るがすことがある。本書は明治・大正・昭和・平成にかけての天皇の発言を、公的なもの私的なもの問わずに集め、それらがどのような政治的効果をもたらしてきたかを論じた本である。

 まず、「お言葉」という呼称からして戦後の日本国憲法誕生にあたって「新設」されたものだ。したがって、この書評が世に出る時点でも、まだ歴史上三人にしか適用されていない呼称である。戦前までのそれは「勅語」と呼ばれていた。教育勅語の勅語である。教育勅語と聞けば眉をひそめる人でも、「教育についてのお言葉」なんて言葉遣いをされたら大して疑問を持たずに受け入れてしまうかもしれない。しかしその両者は、政治的にいえば同一のものなのである。

 この本は「天皇論」ではない。天皇制の是非も、歴代天皇の評価も論じられはしない。真の主題は「日本語とは何か」である。天皇の「お言葉」は、それを語るための手段にすぎない。「お言葉」はある時代と結びついていながら普遍的な価値観にも配慮されており、天皇個人の人格と結びついていながら、政府や官僚機構の思惑も周到に反映されている。いびつで矛盾を抱えた発話であるがゆえに、神経質なまでに研ぎ澄まされた話し言葉の究極形といった性格も持っている。

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 明治天皇は、発言の公私が一目瞭然な天皇であった。なぜなら、政務上の発言は文語体で行う一方で、プライベートの喋り方は京都弁だったからだ。時代が下るにつれて、「お言葉」は表面的な文体だけで公私の別をつけることが難しくなってゆく。そしてこの変化は「お言葉」に限らず、日本語そのものの変化に他ならない。

 昭和天皇最晩年の「お言葉」で話題になったのが、富田朝彦宮内庁長官(当時)に語った「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」という、靖国神社参拝をめぐる発言だ。しかし私は靖国という政治的問題よりも、この発言の文体の方に興味がある。指示語を多用し助詞は省き、それでいて主語は明確化されているこの発話に、奇妙なものを感じるのだ。公的な発話であればここまで片言的にはならないが、完全に私的な発話であればここまで主語を明確にしない。公私の狭間にある、きわめて微妙なバランスの発話だ。

 天皇の「お言葉」は、話し言葉である。それが政治的な意味を帯びることを自覚しているために極度に抑制された話し言葉になっているけれど、口語的な崩し方も自然になされる。もろいガラス細工のように繊細な、現代口語日本語の前衛がここにある。

つじたまさのり/1984年、大阪府生まれ。近現代史家。慶應義塾大学大学院文学研究科中退。政治・歴史・文化について独創的な評論を続けている。『大本営発表』『ふしぎな君が代』『文部省の研究』『たのしいプロパガンダ』など、多くの著書・監修書がある。

やまだわたる/1983年、北海道生まれ。歌人。歌集に『さよならバグ・チルドレン』など。エッセイに『ことばおてだまジャグリング』。