“非戦闘地域” の実態は――自衛隊の活動範囲広げたイラク派遣
平成の30年を通じて深まり続けた日米同盟は、自衛隊の活動領域を事実上の“戦地”にまで広げることになった。きっかけは2004年の陸上自衛隊のイラク派遣だった。
ドイツやフランスなどが反対する中、イラクが大量破壊兵器を所有しているとして戦争に踏み切ったアメリカに対して、日本は再び率先して支持を表明する。開戦から4ヶ月後には特別に法律がつくられ、復興支援のためにイラクへの派遣が決まった。このとき、官房長官として、派遣決定に深く関わっていた福田康夫は、私たちの取材に対して「皮肉なことに」と語り始めた。
「日本がイラク派遣のための法律を作った後に、テロが活発化してしまったんです。しかも大規模になった。それでもいずれは沈静化するんだというように思っていたんだけれども、止まるどころかむしろ酷くなる。しかし法律もつくったし、アメリカは日本に対して復興支援をぜひやってほしいと言ってくる。ほかの国々があまり協力的ではなかったこともあって、アメリカの日本に対する期待が非常に高まって、より応えなければならないという状況になっていた。いまから見れば、『非戦闘地域』という表現は、かなり苦しい、国会で法律を議論するにはふさわしいものではなかったと思います」
2年半にわたった陸上自衛隊の活動で派遣された隊員の数は5600人にのぼった。自衛隊は自ら危険を察知し、密かに“戦死”への備えを進めていたことも明らかになっているが、幸運にもひとりの犠牲者も出さずに活動は終わった。
「国のやりたいことを具現化する装置」となった自衛隊
しかし今回、この結果だけを見て「ただの成功体験としてはいけない」と警鐘を鳴らす人物に出会った。2004年7月からイラクで部隊を率いた田浦正人。現役の陸将だ。陸上自衛隊は活動期間中、迫撃砲などによる14回の攻撃を受けていた。田浦が派遣されていた半年間にそのうち7回が集中、最も厳しい時期に当たった。ともに活動していたオランダ軍兵士が、銃撃戦で死亡するなど、ぎりぎりの日々が続いていた。
こうした中で、隊員の命を預っていた田浦の重圧は並大抵のものではなかった。「ひとりの犠牲者も出さない」――。それは、当然「隊員たちを家族のもとに返す」という大目標のためだった。しかしそれに加えて、別の必要性もあったと明かした。田浦は、政治の決定に従って任務を行う組織である以上、「現地は非戦闘地域である」という政府説明と矛盾しない結果が求められると強く感じていたのだ。
「もし何かあったら、自衛隊、それから日本国に与える影響、政府に与える影響も当然大きなものがあるだろうとは思っていました。私どもは“国のやりたいことを具現化する装置”だと思っていますので、そこはなりきってやるしかない」
自衛隊が、戦闘の続くイラクの地で具現化しようとした「国のやりたいこと」とは何だったのか。現地での出来事をつづった私的なメモには、PKO=国連の平和維持活動との違いに戸惑う中で、田浦が認識した答えの一つがあった。
〈これは、日米同盟の支援なのだ〉(田浦のメモ)