社会学者・大澤真幸さんが新書600ページ余に及ぶ社会学の歴史を著した。
「学問には、その歴史を必ずしも知らなくても最先端の研究が可能なものと、その歴史を知ることが学問の営みそのものとさえ言えるものがあります。自然科学系は前者でしょう。後者の代表は哲学で、社会学も、社会学史を知らないことには始まらない。ところが大学の社会学科で社会学の歴史を教える時に使えるような通史的な本は少ないのです。僕は使命感を持って、この本を書きました」
社会学が生まれたのは、一般的には19世紀とされるが、本書は何と古代ギリシアの哲学・思想から始まる。「人間は政治的動物である」と述べたアリストテレス、「国際法の父」グロティウス、「万人の万人に対する闘争」回避のため「リヴァイアサン(国家装置)」の必要性を説いたホッブズ、『社会契約論』のルソーなどが論じられていく。彼らの思想は、今日から見れば社会学を準備するものではあったが、いまだ社会学とは言えない、と大澤さんは書く。なぜだろうか。
「彼らは“理想とすべき、規範的社会”について論じましたが、その“理想”“規範”自体は疑われていないからです。社会学をやるというのは、いま現に成り立っている社会や秩序を自明のものとせず、他のあり方がありうる、という不確実性の感覚を持つことです。本の中では『偶有性』という言葉を使っています」
その感覚はフランス革命による社会転覆でもたらされた。革命が終わった頃に生まれた世代において革命は内面化され、社会学が誕生する。コントが「社会学」という言葉を作り、スペンサーはダーウィンの進化論に倣い「社会進化論」を唱え、同時期にマルクスは『資本論』を発表。この辺りが社会学の「第一の山」だ。
19世紀末から20世紀初頭にかけ社会学は「第二の山」を迎える。デュルケーム、ジンメル、マックス・ヴェーバーの3人により学問として確立されたのだ。
「僕は卒論がヴェーバーなんです。彼を軸にして自分の社会学を鍛え上げてきたと言ってもいいくらいです。ヴェーバーは第一次世界大戦にいたるヨーロッパ混迷の時代を背負い、鬱病と闘いつつ『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書きました。敬虔なプロテスタントが神の道具としてひたすら禁欲的に生きることで、意図せずして資本主義社会を成熟させた逆説を分析した。デュルケームもそうですが、社会現象は個人の意図を超えて起こる、ということを発見したのです」
大戦後、国際政治の覇権が移ると共に社会学はアメリカで発展を遂げ、ヴェーバーの理論を踏まえたパーソンズの「機能主義」が一世を風靡した。そして20世紀後半以降、現在まで至る社会学「第三の山」を代表するのがドイツのルーマンとフランスのフーコーだ。
「ルーマンは非常に重要な社会学者ですが、学界以外では無名なので、丁寧に紹介しました。社会を構成するのは人間ではなくコミュニケーションだ、という分析は、極めて現代的です」
言及される学者は60人を超え、フロイトなど「社会学者」として論じられることは稀な人物も含まれる。
「おさえるべき人物・学説はすべて網羅しました。でも僕は読者に物知りになって欲しいわけではありません。実は、自分と人との関わりについて考え続けるという意味で、われわれは皆、生ける社会学者(フォーク・ソシオロジスト)です。考える時に、先人が苦労して作り上げた理論や挫折を知っておくことが、とても役に立つんですよ」
おおさわまさち/1958年長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。千葉大学助教授、京都大学教授を歴任。著書に『ナショナリズムの由来』(毎日出版文化賞)、『自由という牢獄』(河合隼雄学芸賞)などがある。