「去年のオフにも、この教室に来てシチューを食べてましたよ」

『鯉のはなシアター』という番組でこれまで幾多のプロ野球選手の母校を訪ねたが、家庭科実習室の黒板やハンドソープにサインを残している選手は初めてだった。

母校の家庭科実習室の黒板やハンドソープに残された鈴木誠也のサイン ©桝本壮志

「最高で〜す!」だった鈴木誠也の学園生活

 東京千代田区。嘉納治五郎イズムを継承する日本武道館を抜け、夏目漱石の『吾輩は猫である』の文中にも登場する靖国神社を望みながら一つ角を曲がると、治五郎と漱石の学び舎でもあった二松學舍大学附属高校が見えてくる。

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 鈴木誠也の学園生活は、彼のお立ち台での決まり文句であった『最高で~す!』にも似た充足した日々だった。当時の担任・曽根先生は「人柄のよい生徒で、いつも彼の周りには人が集まっていました」と評し、「以前、テレビで“ヨッシャー”を“Eッシャー”と書き違えていましたが、実は高校1年の時から“1-E組”を“1-ヨ組”と間違えていたんですよ」という天然エピソードも語って下さった。

 そんな誠也は、よく家庭科実習室に足を向けていた。彼の狙いは、家庭科の篠田先生が実習で残った食材で作ってくれる『即席まかないメシ』。お腹がすくと訪れ、シチュー、ハヤシライス、グラタン、そして甘いモノには目がないらしく生徒が実習で作ったクッキーをバクバク食べていたのだという。プロ入り後も人知れずこの実習室の扉を叩き“第二の母の味”である即席まかないメシに舌鼓する侍ジャパンの4番候補の姿を想像し、可愛らしさと親近感を覚えた。

卒業後も家庭科実習室に足を向けていたという鈴木誠也 ©文藝春秋

野球人・誠也を育てた恩師

 ドラマ『3年B組金八先生』の卒業の日のシーンで、「もし君たちがその旅の途中で道に迷ったら、どうか私を振り返って下さい。私はねぇ、この荒川のほとり、桜中学のこの教室にずっといます」という贈る言葉が出てくるが、同ドラマの舞台となった荒川の河川敷で『プロ野球選手になりたい』という夢を抱いていた少年誠也もまた、金八先生のような生涯の恩師と出逢っている。

 その恩師とは、23年間に渡り二松學舍野球部を率い、今も同校のグラウンドに立ち、教え子たちの『故郷』となっている市原勝人監督だ。

鈴木誠也を育てた二松學舍野球部の恩師、市原勝人監督 ©桝本壮志

 実は誠也は、荒川リトル時代・小学6年生の時に二松學舍高のグラウンドを訪れピッチングフォームを披露している。誠也の父親と市原監督が中学からの友人だった縁によるものであったが、市原監督は一目見た時から非凡な才能を感じとり、彼が高校生になり入部してきた時には『将来はプロでやる子だな』と悟ったという。

 高校1年の夏からレギュラーを掴み、高校通算43HR、投げては最速148キロの誇るエースとして活躍。また代打で登場する際、市原監督に「ホームランを打ってこい」と言われ、指示通りに140m弾を放ったこともあるという超高校級の逸材。二松學舍でバッテリーを組んでいた同級生の捕手・吉田さんは「中学から有名な選手で、ずっと一緒にバッテリーを組みたいなと思っていたんです」と同世代からも羨望されていた誠也の凄さも明かしてくれた。

 得てしてその手の高校生は“おごり”や“緩み”が生じがちなものだが、市原監督はそんな誠也に『人間力』を切々と説いた。

「お前がどのぐらい遠くに飛ばせるか? どのぐらい速いボールを投げれるのか? そんな能力はスカウトの方はみんな知っているよ。そんなことより、野球に対する姿勢を見ているんじゃないかな。いつも全力で走る、チャンスの時に気持ちをブラさず本来のバッティングができる。きっと、そういった姿勢を見ているんだ。だからしっかりやって行こうじゃないか」と。

 誠也には、それを素直に受け入れることの出来る心の度量があったという。エース投手でありながら、ライト前ヒットで2塁を陥れ、内野フライを打っても、大飛球であれば野手が捕球するまでに3塁に到達ほどの全力疾走を見せ始めたという。今でも監督は部員らに誠也の話をよくするそうだが、彼の豪快な打棒や速球の話は一度もしたことはなく、いつも伝えるのは『いかに誠也がひたむきだったか』『謙虚であったか』その野球に対する立ち居振る舞い。そして「今あいつがカープで良いカタチになっているのも、あいつの謙虚さと努力があってこそ。謙虚や気遣いの出来る選手が応援される選手になるし、チャンスを与えてもらえる。鈴木誠也はそれを自分で作っているんだよ」と語りかけるのだという。