太平洋戦争で一度焼失してしまった
ムーランルージュとはフランス語で「赤い風車」の意味で、パリにある同名のミュージックホールからそのままとっている(亜矢美の店の名前「風車」もこれに由来する)。戦前のムーランルージュは、1931年12月、浅草オペラ出身の佐々木千里が座主となり、映画館だった建物を改装して開場した。当初はなかなか客が入らなかったが、斎藤豊吉・山田寿夫・伊馬鵜平(のちに晴部)らの作家が文芸部に加入して「ムーラン調の諷刺劇」という作風を確立し、出演者からも明日待子(あしたまつこ)・望月美恵子(のちに優子)・小柳ナナ子ら女優がアイドルになり始めると、急速に支持者が増えて行った(※1)。ファンの中心はサラリーマン、学生、インテリ層だった。
しかし日中戦争から太平洋戦争へと戦局が拡大するなかで、脚本の検閲も厳しくなり、売りだった痛烈な世相風刺やギャグは封印される。ムーランルージュの名も、敵性語は好ましくないとされ、1944
新宿の娼婦も大合唱した『性病院』
この鈴勝と不動産会社に、ムーランルージュの文芸部員だった中江良夫らが掛け合って、ムーランの復活を企図する。このときムーランの名が第三者に使われていたこともあり、かつての劇団員が集まっての久々の公演は「赤い風車作文座」の名で1946年5月に行なわれた。この好評を受け、劇場を増改築し、同年10月には「劇団小議会」として公演を開始。だが、折からの経済混乱もあって赤字に終わり、劇団はいったん解散となる。しかしこの直後、林以文という台湾人実業家が劇場とムーランの名前を買い取り、経営の責任が俳優の宮阪将嘉・三崎千恵子夫妻に任されたことで、ついに新宿ムーランルージュは本格的に復活する。第1回公演は1947年4月8日に行なわれた。
復活したムーランでの公演は1日3回、1時間半程度の芝居と、歌やコントなど50分ほどのバラエティの2本立てで、番組は15日ごとに替わった。新生ムーランで文芸部長を務めた中江良夫は、同職を引き受けるにあたり、戦前からのムーランの演劇形式から脱皮し、上演する芝居は「あくまで社会の現実に眼を向けたもの」にするなどといった条件をつけたという(※1)。事実、復活当初のムーランの公演は、当時の世相を色濃く反映したものとなった。『性病院』と題する芝居では、当時、新宿の街角にたむろしていた街娼たちが描かれた。この公演中、本物の街娼と思しき女性5~6人が客席に現れる。芝