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ムーランが輩出した最大のスター「森繁久彌」

 戦後のムーランから輩出された最大のスターが森繁久彌である。森繁は東宝劇団などを経て、満州に渡ると新京放送局に勤務した。戦後、引き揚げると、いくつかの劇団に客演したあと、1948年、ムーラン入りする。翌49年、芸術祭参加作品として上演されたミュージカル『太陽を射る男』では、のちに「森繁節」と呼ばれる歌唱を披露するなど本領を発揮し、評判をとった。

 森繁はたちまち注目され、1949年暮れにはNHKから声がかかる。翌年よりラジオ番組『愉快な仲間』のレギュラーになり、2月にはムーランをやめてしまう(※3)。あれよあれよという間に売れっ子になった森繁には、ムーランの劇団員から反発もあった。のちに喜劇役者として人気を集めた由利徹は、飲み屋街で森繁と会ったとき、「自分ばかりいい酒を飲んで」と酔った勢いで殴ってしまったことがあったらしい。ムーラン出身の脚本家・窪田篤人は、《由利が森繁に抱いていた嫉妬心が、そういう形で爆発したのだと思う》と記している(※2)。ただし、中江良夫によれば、俳優たちは森繁をライバル視しながらも、《役者として自分にないものを森繁から学び取ろうとして、努めて彼との共演を望んでいたのが事実である》という(※1)。

ムーランルージュが生んだ“売れっ子”森繁久彌 ©文藝春秋

「愚兄賢妹」ともいうべき咲太郎となつ

 森繁が在籍していたころには、ムーランの公演は「現実に眼を向けた芝居」から、バラエティ中心に路線変更していた。すでにムーランをはじめ軽演劇の劇団は、ストリップショーなどに客をとられ、人気が凋落しつつあった。経営不振に陥ったムーランでは、ストリッパーを出演させたり、元東宝の演出家・秦豊吉を首脳陣に迎えるなどしてテコ入れが図られたが、いずれも失敗に終わる。とうとうムーランルージュは解散に追い込まれ、本格復活からわずか4年にして、幕を降ろしたのだった。

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 ムーランルージュからは、森繁久彌だけでなく多くの才能が輩出された。音楽部にいた長津義司は、「チャンチキおけさ」など三波春夫のヒット曲のほとんどを作曲した。「劇団小議会」時代に歌手として在籍した渡部実という青年は、マイクのない時代にもかかわらず、客席の後ろまで声が通らないので、客からしょっちゅう野次られていた。いつのまにか劇団から消えた渡部青年だが、数年後、春日八郎の芸名で「お富さん」という大ヒットを飛ばし、かつての同僚たちを驚かせる(※1)。ムーランの歌手だった楠トシエも多くのCMソングを歌い、「コマーシャルソングの女王」と呼ばれた。また森川時久は、立教大学在学中にムーランの舞台監督を務め、卒業後は文化放送を経てフジテレビに移ると、『若者たち』など多くのドラマを演出した。のち2011年に公開されたドキュメンタリー映画『ムーランルージュの青春』(田中じゅうこう監督)では、楠や森川のほか、ムーランのアイドルだった明日待子や晩年の三崎千恵子ら関係者が出演し、往時を振り返っている。

『なつぞら』の咲太郎は妹思いながら直情径行な性格で、なつに迷惑をかけることもしばしばだ。「愚兄賢妹」ともいうべきこの兄妹の関係は、映画『男はつらいよ』における主人公・車寅次郎と、異母妹のさくらの関係をちょっと彷彿とさせる。そういえば、『男はつらいよ』の映画全48作で、寅次郎とさくらを温かく見守る“おばちゃん”を演じていたのは、戦後のムーランルージュを夫とともに支えた三崎千恵子であった。

※1 中江良夫「新宿ムーラン・ルージュ」(秋山邦晴ほか『文化の仕掛人 現代文化の磁場と透視図』青土社)
※2  窪田篤人『新宿ムーラン・ルージュ』(六興出版)
※3 小林信彦『日本の喜劇人』(新潮文庫)
 このほか、執筆にあたっては中野正昭『ムーラン・ルージュ新宿座――軽演劇の昭和小史』(森話社)、森繁久彌『森繁自伝』(中公文庫)なども参照しました。