ムーランが輩出した最大のスター「森繁久彌」
戦後のムーランから輩出された最大のスターが森繁久彌である。森繁は東宝劇団などを経て、満州に渡ると新京放送局に勤務した。戦後、引き揚げると、いくつかの劇団に客演したあと、1948年、ムーラン入りする。翌49年、芸術祭参加作品として上演されたミュージカル『太陽を射る男』では、のちに「森繁節」と呼ばれる歌唱を披露するなど本領を発揮し、評判をとった。
森繁はたちまち注目され、1949年暮れにはNHKから声がかか
「愚兄賢妹」ともいうべき咲太郎となつ
森繁が在籍していたころには、ムーランの公演は「現実に眼を向けた芝居」から、バラエティ中心に路線変更していた。すでにムーランをはじめ軽演劇の劇団は、ストリップショーなどに客をとられ、人気が凋落しつつあった。経営不振に陥ったムーランでは、ストリッパーを出演させたり、元東宝の演出家・秦豊吉を首脳陣に迎えるなどしてテコ入れが図られたが、いずれも失敗に終わる。とうとうムーランルージュは解散に追い込まれ、本格復活からわずか4年にして、幕を降ろしたのだった。
ムーランルージュからは、森繁久彌だけでなく多くの才能が輩出された。音楽部にいた長津義司は、「チャンチキおけさ」など三波春夫のヒット曲のほとんどを作曲した。「劇団小議会」時代に歌手として在籍した渡部実という青年は、マイクのない時代にもかかわらず、客席の後ろまで声が通らないので、客からしょっちゅう野次られていた。いつのまにか劇団から消えた渡部青年だが、数年後、春日八郎の芸名で「お富さん」という大ヒットを飛ばし、かつての同僚たちを驚かせる(※1)。ムーランの歌手だった楠トシエも多くのCMソングを歌い、「コマーシャルソングの女王」と呼ばれた。また森川時久は、立教大学在学中にムーランの舞台監督を務め、卒
『なつぞら』の咲太郎は妹思いながら直情径行な性格で、なつに迷惑をかけることもしばしばだ。「愚兄賢妹」ともいうべきこの兄妹の関係は、映画『男はつらいよ』における主人公・車寅次郎と、異母妹のさくらの関係をちょっと彷彿とさせる。そういえば、『男はつらいよ』の映画全48作で、寅次郎とさくらを温かく見守る“おばちゃん”を演じていたのは、戦後のムーランルージュを夫とともに支えた三崎千恵子であった。
※1 中江良夫「新宿ムーラン・ルージュ」(秋山邦晴ほか『文化の仕掛人 現代文化の磁場と透視図』青土社)
※2 窪田篤人『新宿ムーラン・ルージュ』(六興出版)
※3 小林信彦『日本の喜劇人』(新潮文庫)
このほか、執筆にあたっては中野正昭『ムーラン・ルージュ新宿座――軽演劇の昭和小史』(森話社)、森繁久彌『森繁自伝』(中公文庫)なども参照しました。