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「私はあの人だったかもしれない」という感受性を持っていたい

――帯の裏に本文から書き出されている、次の一節もまた印象的ですね。「Believe me.関係性を裏張りしてくれる“奥”がない世界では、散り散りの皮膚のかけらのような、有限な存在同士が信頼し合うしかない。それは、パズルのピースが仮にかみ合っても、全体としては完成しないような状態なのだ。Believe me.僕はあなたを呼ぶ。あなたは僕を呼ぶ」。

千葉 そんなわけで、この本を読む時には、同じテーマが繰り返されたり、反響するところに注目してもらえると嬉しいです。たとえば少しネタバレすると、マイアミでお世話になっていた知人の家の前にあるレイクの水が、青く人工的に着色されていたという記述があります。その後に、ある黒人人権団体のリーダーが実は白人で、日焼けしたり、ファンデーションを塗って黒人を装っていたという話が出てくるんですが、ここでは「色を装う」という主題が変奏されている。アメリカで出会った人やすれ違った人物たちの微妙に似た動作が重なり合って、アイデンティティがどこか多重になったり、あるいは日本からアメリカという可能世界に移行したかのような、どこに本当のアイデンティティがあるのかわからないような感じそれ自体を享楽するような感覚。そういう風に、一つのものが別のものにすり替わって行ってしまうこと、「分身」が書き終えた時に全体を貫くテーマとして浮かび上がってきました。

Air BnBで探したボストンの地元の人のアパートに居候する。海から遠くない場所だった。

千葉 自分と他者がすり替わってしまうかもしれない。もしかしたら、私はあの人だったかもしれない。そうした分身関係の中に書き手も読み手も巻き込まれていく。大げさにいえば、僕は社会の根底に、そういう分身関係があることが倫理だと思っているんです。分身関係への感受性を持つことが、人に優しくなったり、あるいは暴力に抵抗したりするための一番の原理だと思うんですね。それは「私もあなたのことがわかるよ」と共感することとは違う。まったくの別々の世界を享楽している、非常に孤独で閉じた存在が、まさに孤独で閉じているからこそすり替わってしまうような共同性を考えています。このような共同性は、共感とはまったく違って、むしろ共感というものがもたらす暴力に抵抗するような孤独、あるいは切断性を含んでいるんです。