誰もが表現できるようになったがゆえの負の側面と希望の火
千葉 インターネット以前の世の中というのは、選別された人しか表現の世界に出られなかった。でもそれ以後は、それまで表舞台には出られなかった、いろんな人が世に出られるようになった。誰もが表現できるようになったがゆえに、攻撃的な言葉と嫉妬の感情が渦巻くようになった負の側面もあります。でも、インターネットのおかげでいろいろな水準のアマチュアリズムが可能になったわけで、その状況を僕はずっと大事にしています。そんなのは初期インターネットの希望であって、全面的なビジネス化によってそんな希望は潰えてしまった、と言われるかもしれないけれども、僕自身は希望の火を消さないつもりだし、現に今もそれを実践しています、と自信を持って言いたい。僕のアカウントに関わって、いろんな制作活動の様子をツイートしている人はまだそれをやっているはずで、北大路さんもそれをやっている。俳句というのは、そもそもアマチュアの文化であり、僕が俳句に惹きつけられたのは、俳句の持つアマチュアコミュニティの性質というものが僕が考えていたネット上の緩やかな創作共同性と合致したからでしょうね。俳句の断片性はツイッターの140字の形式とも相性が良い。こんなことを考えるにつれ、日本ってそもそも日記文学の国なんだということに思い至ります。主客の境が曖昧な、日記的文化の国の中で言語使用をする。僕自身はそこから西洋哲学や西洋文学に手を伸ばしてきましたが、この本でもう一度、日本文学の土壌に立ち返ってみた、という気がしています。
僕としては、この本を読んで、自分も何か書いてみたくなってくれるといいなと思っています。その意味では『勉強の哲学』とも繋がっているんですが、制作行為が伝染するということ、僕はそのことにしか興味がないのかもしれない。制作行為を伝染させること以外に、社会を良くする方法はない。そして、それこそが僕は革命だと思っているんです。
日頃、社会問題や経済問題についてのコメントはあまりしないけれども、僕にある種の左翼的なものがあるとすれば、作ること、職人的立場になってみることを擁護することだと思います。ものを作る側にコミットせず、悪い意味での評論家的態度を保っている人が世の中を悪くするんです。何か言いたいならば、まずは作ってみればいい。簡単に見えていかに難しいかがわかるはずです。具体的なコツの問題が重要なんです。その実感に立って初めて、人と人との関係性をどうするかが問題になる。「接続過剰から切断へ」と僕が言うとき、それは創作者の孤独を言っている。ものを作る時には、閉じこもることも必要なんです。創作のために孤独が大事だということは、現場的な職人的体感から言えることなんです。そして、そこに僕のレフトがある。
さらに言えば、セクシュアリティや欲望というものも現場の問題であって、マイノリティのことをよく理解しましょうというのは、評論家的態度なんですよね。当事者というものは、複雑な独自の享楽を持っている。その孤独を大事にする視点を失って、LGBT支援が大事だというような大ざっぱな正論を非当事者が喧伝している状況に僕は批判を向けている。そういう話も、職人的孤独と結びついているんだと思います。だから僕にとってレフトであることとは、何よりも作ることであり、作る仲間を増やすことなんです。