千葉 何もドラマチックなプロットを書くことではなくて、もの、人、出来事といった具体的なことを断片的に書くということが、「文学をする」ことの、非常にミニマムな僕なりの定義なんですが、ではそれはどうやって可能なのだろうか? それにはサバティカルを利用して、アメリカという特殊な環境に身を置くのがいいんじゃないだろうかと思ったんです。そこで見たもの、聞いたもの、感じたものを書いていれば、当然具体的な描写になるわけで、文学を立ち上げるのにはふさわしい。言葉の仕事を新しい方向へ広げるのに、アメリカに行くのはいい機会になるんじゃないかと。
海外生活の不安も、些細な冒険も素直に書いてしまおう
――アメリカに行くといっても、都市間を移動していても、行動範囲はそう広いわけでもないですよね。書き終えられた直後に、「いかにグローバル化の中心のアメリカに行って、そこに自分が開かれなかったか」という話でもある、とおっしゃっていたのが印象的でした。
千葉 海外体験記って、自分の殻を破っていろんな他者と出会って解放されました、というような話が多いと思います。でも僕自身は臆病なので、海外に行くと、すでにある「自分の型」と、「別の型」との不安な緊張関係に苛まれることが多い。それなら素直にそういう不安を書いてしまおう、と思ったんです。アメリカに行ったときにも、無理してあちらこちら歩き回ろうとか、大きな冒険はしなかった。せいぜい家の前の通りの、まだ行ったことのないその奥に行ってみよう、というくらいの些細な冒険。でも、そういうことを書くことに僕の書き手としての意味があるな、と思ったんですね。
具体的にはまず、ツイートのログをダウンロードして、「食事」「セクシュアリティ」「音」のように項目を立てて分類していきました。次にそこから、時系列に沿って、様々な場面を浮かび上がらせていく。そして具体的にまとまりを持った文章に書きかえていったのですが、その作業はある意味では「形式」ということ自体について考えることでもあって、本の構造全体は一つの変奏曲のようなものになったと思います。「信頼」「二人称」「聖なるもの」など32のパートからできていますが、一つひとつの主題は異なりながらも、実は同じようなことを言っているとも言えて、全体を通じて、「分身」や「型」の問題、あるいは異なる型の間の分身関係という問題が32回繰り返される形になっているんです。ちょうど本の構成をしているときに聴いていたバッハのゴルトベルク変奏曲の数と、章の数とたまたま一致していたのが個人的には嬉しいことでした。