アメリカに行ってみた印象は?
――より大文字の意味で、実際にアメリカに行ってみた印象はどんな感じでしたか?
千葉 アメリカというと、トランプ以後の内向きになり、排外的になったアメリカと、もうひとつ、PC(ポリティカル・コレクトネス)的なものに覆われたインテリのアメリカ、というなんとなく2つのイメージがあって、日本においては当然、後者の立派なアメリカが参照されると思うんですけど、現地に行ってみると、現実はもっと雑多だということがわかりました。インテリたちの中にもインテリ的なアメリカに違和を持っている人がいたり、いろいろと意見が割れている。この本の中では、特に僕の専門であるセクシュアリティについての議論のすれ違いで、その複雑さが表れていると思います。
反面、対立しているようで実はそうでもない側面もあると思ったのは、例えば哲学をめぐる状況でした。よく言われるように、アメリカでは論理的で理系的なやり方の分析哲学の流れが強く、フランス現代思想のようなものは哲学として見なされない、という傾向は確かにあるんですが、実際には、交流が色々あります。だから、事はそれほど単純ではないなと思います。現在では文系の研究状況はなんでもありだし、日本とアメリカの日本とアメリカの 違い は思ったほど大きいわけでもない。グローバル化の中で、大きな違いはなくなっていくかもしれない。もちろん、人種、エスニシティ、セクシュアリティの多様性、そしてジェンダーの平等が街全体に生み出している活気ある個人主義の雰囲気というものは、やはりアメリカの魅力で、特にNYはそれが顕著でしたね。
――「一作一作がスタイルの実験でもある」、とおっしゃっていますが、『アメリカ紀行』を書き終えられての感想を教えてください。
千葉 力が抜けたものが書けたなと思っています。書くというのは、自分で自分のことを治癒するような過程ですね。とにかく文章を推敲しすぎず、それで一冊書けたことが自分にとっては大きかった。ノンシャランな、放り投げるような、構わないやり方。
何を作るにせよ、とにかく勢いでどんどん作れてしまう天才的な人っていると思うけれども、僕はそれよりも、制作という行為に対するメタな考察があって、その方法論と実際の制作との間を行ったり来たりしているような制作者が好きなんですよ。ある種の天才信仰の人からすると、制作の裏舞台を見せるような態度は良くないという価値基準はあると思うんですけど、僕はどちらかというと、むしろ「二流的なものを純化させる」ということに興味があるんです。天然の天才が必ずしもいいわけではない。ちょっとかじったくらいの下手な俳句をツイートしてしまったりするのも、まあいいじゃないかと思ってるんです。本のところどころに俳句を入れ込んだのには、北大路翼さんという俳人との出会いがありますが、北大路さんはノンシャランであることの価値を伝えているような人で、だらしなさを文学につなげているようなところがあります。とはいえ、隠れた努力がすごい人なんですが。