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「マユ。マユはどこだ!」

 寄宿人のオドが山の作業現場から、いつものように昼食のため戻ってくると、なぜか妙に屋内は静まり返っている。囲炉裏の片隅には幹雄が前屈みに座り込み、じっとしたままだ。日ごろ茶目っ気の多い幹雄のこと、狸寝入りだなと思い、オドは大声で幹雄の名を呼んだ。

「おい幹雄、帰ったぞ。早く飯くうべ……。こら、狸寝入りしてもダメだぞ」

――返事がない。オドは幹雄の肩を揺すりながら顔を見た瞬間、ハッと息を飲んだ。

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 幹雄の顔の下には固まった血が盛り上がり、しかも喉の一部は鋭くえぐられているのだ。さらに側頭部には親指大の穴が開き、すでに息はなかった。土間には小豆が一面に散らばり、まだ生暖かい馬鈴薯が2つ3つ炉端に転がっていた。

 オドの体はガタガタと震えた。あまりのことに茫然となったオドは、ようやく震える声を張り上げマユを呼んだ。

「マユ。マユはどこだ! オドが帰ったぞ!」

 だが、応えはない。ただ薄暗い屋内には異様な臭気が漂うばかりだった。

 オドは直ぐさま4キロメートル下流の出合い作業現場へと急いだ。走りながらオドは、朝方幹雄のことで夫婦が口争いをしていたことをふと思い出した。自分が家を出てから口争いが再燃し、あげくの果てに幹雄がそのとばっちりを受けてどちらかに殺され、驚いた2人が揃って行方をくらませたのではないか……、という考えが頭をよぎるのだった。

 しかし、出合い作業の開拓民たちが、太田家へ戻ってから状況を調べていて、幹雄を殺したのは熊の仕業であり、マユは熊に連れ去られたらしいことが分かってきた。幹雄の体温と馬鈴薯のぬくもりから、被害は午前10時半前後らしいことも分かってきた。

抵抗しながら激しく逃げ回ったマユ

 空腹を抱えて突如現われた熊は、まず山側の窓辺に吊るされたトウキビを食おうとして窓から部屋を覗いた。これに気づいたマユと幹雄の2人は驚き、大声をあげる。その声に逆上した熊は家の中に躍り込み、炉端の幹雄を一撃のもとに倒した。マユは燃える薪で立ち向かうが、巨大な熊にかなうはずもなく、片隅に追い込まれ撲殺された。薄暗い居間には燃えた薪が散乱し、屋内の隅には柄が折れ血糊に染まったマサカリが落ちている。その血糊の手形やおびただしい血痕からみて、抵抗しながらも激しく逃げ回った様子がうかがえた。どうやらマユはその場で一部食害されたらしく、夜具は、おびただしい鮮血に染まっていた。熊は入りこんだ場所からマユをくわえて連れ去ったらしい。窓枠には頭髪が束になって絡みついていた。足跡は血痕とともに向かいの御料林に一直線に続いている。この経緯の推測に、疑う余地はなかった。

12月9日午前10時半頃、熊は太田家の窓から侵入した。まず炉端で幹雄を撲殺し、次にマユを食害して侵入した窓から山へ連れ去った。

 太田家の被災直後、知り合いの松永米太郎が乗り馬で同家の前を通った。この日は用事もたまっていたので彼はだまって通り過ぎたが、山裾から一直線に血痕が続いているのを見た。獲った兎をマタギが引きずって太田家に入り、一服しているものとばかり思った、という。