昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2019/06/25

運命の12月9日がおとずれる

 人里離れた開拓部落では、12月ともなれば野も山も一面の雪の下である。河川の通行は一時閉ざされてしまうので、地元部落民は氷橋(すがばし)を作って交通手段としてきた。この氷橋は、丸太を並べた上にエゾマツやトドマツの枝や葉を敷き詰め、その上に雪を盛って踏み固め、更に川水をかけて凍らせ、何段かこの作業を繰り返して頑丈に仕上げるものである。厳寒の北国では、雪解けの3月一杯までこれで十分に橋としての機能を果たすのである。

 方々の部落でこの氷橋が完成するころには、馬橇の鈴音が辺りに響き、交通が一気に繁くなる。秋ころから納屋に眠っていた農作物が、連日のように村の市場に積み出されていくのだ。外部との往来が繁くなるのもこのころからである。氷橋作りは閉ざされがちな僻地農山村の交通には、なくてはならない重要な作業であった。

 六線沢の開拓部落においても、30キロメートルほど離れた中心地の苫前村に出るためには、部落の数キロメートル下流に横たわる本流の三毛別川を渡らなければならない。そこに氷橋を架けるのは共同作業ですすめられていた。1軒から1人ずつ出てりっぱな橋に仕上げるのだ。これは開拓民の男たちが一堂に会する村の大きな年中行事の一つでもあった。

 運命の12月9日は、開拓部落15軒から13人の男衆が出て、三毛別川に比較的近い辻橋蔵の家の裏山で、御料林の役所から払い下げられた橋桁材の伐採搬出作業をする当番日だった。この作業のため、どの家でも婦女や子どもが留守を預かることになっていた。

©iStock.com

 その朝、太田三郎も作業の一員として出発の準備をしていた。そこへ、日ごろは後追いなどすることのなかった預かり子の幹雄が、「どうしてもついて行きたいよう」、と駄々をこねて困らせるのだった。「子どもだから駄目!」と言う内妻のマユと、「いいじゃないか、連れていく」と言う太田とで、ちょっとしたいさかいがあった。太田は日ごろからわが子のように幹雄を可愛がり、幹雄もまた生みの親同然に2人になついていた。子どもに恵まれなかった太田夫妻は、幹雄が6歳の時に知人の蓮見嘉七から強引に預かってきたのだった。しかし、いつまでも預かったままにしておくわけにはいかず、来年の春には入学ということもあって、力昼の実家に帰すことになっていた。

 太田家には寄宿人の長松要吉(通称オド)という男がいた。彼はこの日朝早くから、裏山に船のキール(竜骨)材の伐採に出かけ、家にはマユと幹雄の2人が留守を預かっていた。

 8時ころに太田三郎は明景安太郎と連れ立って出合い作業に出るため、松村長助の畠の前を通りかかった。すると、野積みになっていたトウキビの山が食い荒らされ、あたり一面に巨大な熊の足跡が入り乱れていた。だが、2人はそんな様子にもさしたる恐怖心も感じずに、「こんな大物ならさぞかし肉もうまかろう」と言い合う始末だった。出合い作業の一服休みにもこのことが話題にのぼったが、誰一人として不安を抱く者もなく、皆黙々と作業に励んだのだった――。