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2019/06/25

胸に大きな白斑を交えた全身黒褐色の巨大な熊

 一方開拓部落の男たちは、三毛別から駆けつけた若者と合わせ30人あまりの捜索隊を作り、10日午前9時ころから連れ去られたマユの遺体を捜しに、雪深い林内に熊の足跡を追った。長柄の鎌を手にした三毛別の河端甚太郎を先頭に、マタギの金子富蔵、宮本由太郎、谷喜八、千葉幸吉、加藤鉄士ら銃手5人が従い、次いで刃物などの武器を手にした山本仁作ら20人ほどが3班に分かれて続いた。

 新雪の林内は歩きづらいことこの上ない。時折樹上から落下する雪にも全神経を尖らせながら、捜索隊は慎重に150メートルほどゆっくり進んだ。すると、やや小高い場所にそびえるトドマツの根元あたりが、黒く盛り上がっているではないか。

 それがたちまち巨大な熊となって躍り出た。一行はあまりに近くから熊が出たのに仰天し、あわてふためき一斉に銃口を向けたが、発射したのはたった1丁、谷の銃だけだった。3丁は不発で金子はいつものクセで銃の遊底に巻いていた布切れが邪魔をして撃てなかった。その当時は、付近の林内に熊が出ても深追いするようなことはせず、万一に備えて安心のために銃を置いているようなものだった。だから実弾も詰めっぱなしというずさんな扱いで、発火するのがむしろ不思議なくらいだったのだ。

 谷の銃が火を噴いたとたん、巨熊は猛然と彼らに立ち向かい、足元がおぼつかず逃げまどう宮本由太郎と河端甚太郎の2人に一撃を加えんばかりとなった。とっさに河端は大声を張り上げ、長柄の鎌に渾身の力を込めて振り回し、宮本は不発の銃を据えてしばし対峙した。この騒動に、ほかの若者たちは一目散に逃げ出してしまった。

 ところがどうしたことか、熊はやおら方向を変え、山の手に向かってそのまま走り去ったのである。立ち上がったときの丈は馬匹をしのぐ大きさで、胸には袈裟掛けといわれる大きな白斑を交えた全身黒褐色の巨大な熊だった。

©getty

 ほうほうのていで逃げ帰って来た若者たちの驚きといったらなく、顔面蒼白で口もきけないほどだった。クモの子を散らしたように逃げ帰ってくる様子は、太田家からもよく見えた。そうこうするうちに、身を案じられていた2人も戻ってきたので、みんなと無事を喜びあった。

 ほどなく関係筋に救援要請の使者が派遣されることになったが、熊の威に呑まれて、屈強の若者もただただ尻込みするばかりであった。そればかりか1人2人と近くの開拓農家に流れこみ、ついには誰もいなくなってしまうありさまだった。そうかといって、このまま放置しておくわけにもいかず、いったんは家にこもった者もぽつりぽつりと現場近くに戻ってきた。

 とにかく捜索隊はもう1度、山に向かうことになった。山あいの冬は日暮れが早く、すでに3時を大きく回った林内は薄暗くなっていた。

 山本仁作ら数人が、先刻熊が飛び出てきたトドマツの辺りへ行くと、熊の姿はすでになく、血痕が白雪を染め、トドマツの小枝が重なったところがあった。その重なった小枝の間からマユの片足と黒髪がわずかに覗いている。くわえられてきたマユの体はこの場所で完膚無きまでに食い尽くされていた。残されていたのは、わずかに黒足袋と葡萄色の脚絆をまとった膝下の両足と、頭髪を剥がされた頭蓋骨だけであった。衣類は付近の灌木にまつわりつき、何とも言えぬ死臭が漂っていた。誰もがこの惨状にただただ息を飲むばかりであった。

 夕刻5時ごろやっとマユの遺体は太田家に戻った。

『慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』(文春文庫)    村人たちは恐怖に震えながらもヒグマ退治に乗り出すが、冬眠しそこねて“穴持たず”となり凶暴化したヒグマは、悪魔のような知恵を働かせて、村人たちを次々と牙にかけていく――。死者8名という世界的にみてもヒグマによる食害事件としては類をみない最悪の惨劇となった「三毛別(さんけべつ)事件」の全貌を、生存者たちへの貴重な証言をもとに描き出す戦慄のノンフィクション。

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