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本因坊秀哉名人と打つ

 親の期待に応えたいという意識がすでに壽子には芽生えていたのだろう。ちょうど壽子が小学4年生になる頃、一家は伊東から熱海へと移り住んだ。そして、この転居が思いがけず壽子の人生に大きく影響することになる。

「熱海には小菅剣之助さんという財閥の方の別荘がありました。この小菅さんは囲碁や将棋が大変にお好きだったんです」

 小菅は将棋の棋士として活躍し、関根金次郎と名人位を争うほどの腕前であったが、その後、将棋界を去って実業家となり一代で財をなしたという人物である。囲碁、将棋を好み、熱海の別荘では、棋士を招いて、度々碁会を開いていた。

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これまでに女流棋士タイトルを通算10期獲得している

「ある時、その小菅さんが、お屋敷に本因坊秀哉名人をお呼びになり碁会を開かれた。その頃には『熱海に囲碁を打つ女の子がいるらしい』と噂が立っていたようで、私にも来るようにと声がかかりました。父は呼ばれず、私だけでお屋敷に伺ったんですが、父は私を送り届けながら『落ち着いて打つんだよ』と一生懸命、言い聞かせてくれました。

 広間に通され皆さんが見守る中で、秀哉名人に六子(の置き碁。六子の石をあらかじめ碁盤上に置き、ハンデをもらい打つ、ということ)で打って頂いたんですが、それが自分で言うのもヘンですが、大変によく打てたんです。秀哉名人は私には何もおっしゃらなかったけれど、後で小菅さんに向かって、ずいぶんと私の碁を褒めて下さったそうです」

これが運命の一局となる

 本因坊秀哉は、本名を田村保寿という。江戸時代から続く本因坊家の最後の家元であり、本因坊秀哉と名乗っていた。秀哉は自分の代で家元制を廃止することを表明し、以後、「本因坊」は大阪毎日新聞社(現・毎日新聞社)が主催する本因坊戦というタイトル戦を勝ち上がった棋士が名乗ることのできる称号となる。前近代的な家元制度に自ら幕を引いた秀哉は、昭和12(1937)年1月1日には、自身の引退を発表。壽子が熱海の小菅家で本因坊秀哉との対局に臨んだのは、その直後で、同月の23日のことだった。

 この時、壽子は、まだ9歳。だが、これが運命の一局となる。

「この秀哉名人との対局が東京で評判になったそうなんです。私という存在を中央の囲碁界の方々に知って頂く、ひとつのきっかけになった。その後、3月6日に、東京で大きな囲碁の催しがあるから参加してみてはどうか、と声をかけて頂き、私は父と一緒に上京しました」