よそで打ってきた碁を父の前で「並べ直す」
父・栄三は自分の頭で考え、今風にいえば娘のために「カリキュラム」を作ったのだった。どうやったら娘を強くすることができるのか。すべて自分で考え、娘の進歩を見ながら、それに合わせて方針を立てていったのだろう。しばらくすると、父以外の人とも打つようになった。
「父に言われまして、近所に暮らす囲碁の強い方のお宅に伺って、教えて頂くようになりました。自宅に戻りますと、父の前で、よそのお宅で打ってきた碁を再現して見せなくてはなりません。囲碁用語で『並べ直す』と言うのですが、これはある程度、棋力がないとできません。碁盤に一手目から並べていくのですが、自分の打った手やお相手の打った手が、どうしても思い出せないことがある。
そうしますと父が、『教えてもらって来なさい』と言うんです。もう夕食時で、母が食事の支度を整えている。でも、父は『食事は後にして、まず聞いていらっしゃい』と私に言う。しかたなく、私は外に出て、また歩いて先ほど辞去したお宅に行き、『手順を忘れてしまって思い出せないので、教えて下さいますか』と説明し、手順を教えて頂く。
ある冬の寒い日のことでした。ご先方が、そんな私のことを可哀そうだと思って下さったんでしょうね。手順を聞きに来た私を送って下さって、帰り路で手袋を買って下さった。それを、私の手にはめながら、『壽子ちゃん、しっかり勉強して強くなりなさいね』っておっしゃった……。今も心に残っています」
男尊女卑的な戦前の日本の風潮に疑問を持っていた
父の教育は愛情から出ているとはいえ、厳しいものだった。だが、その思いに壽子は反発することなく、むしろ順応し、才能を着々と伸ばしていった。
明治生まれの海軍軍人と聞くと、ひたすら厳格な人物をイメージしてしまいがちだ。だが、むしろ父・栄三は男尊女卑的な戦前の日本の風潮に疑問を持っていた人物であり、だからこそ、世間の誤った女性観を正したいという思いを抱いて、娘に向き合っていたと見るべきであろう。
「父は海軍時代に、世界を回っておりますから、いろんな先進国の実情を自分の目で見ていました。ですから、進歩的な人ではあったんです。父は、『これからの女性は男性に追従するだけではいけない。女性でも自立して生きるべきだ。そのためには、何か身に付けさせなければいけない。何がいいかな』と、私が生まれた時、すぐに私の母に言ったそうです。父の叔母が女医でしたから、最初は女医がいいと思ったらしいんですが、『女医になるには金がかかるから無理だな』と(笑)。その後、女流棋士がいいと思いついたようです。
私には妹がふたり、弟がひとりいましたが、父は弟に対しては、初めから囲碁を教えて棋士にしようという考えは持っていなかった。弟だけは棋士にしようとしなかったんです。父の興味はあくまでも、女性の可能性の探求にあったから、弟は対象外だったんでしょうね(笑)。妹ふたりも私に続いて棋士になりましたが、妹は私がダメだった場合の控えというか、そういう感じで(笑)。ですから妹よりも、やはり私に対して厳しかったんですね」