本因坊秀哉名人と打つ
栄三には、囲碁なら自分がある程度まで教えることができるという自負もあったのだろう。海軍軍人としての夢は果たせなくなり、その分、情熱を何かに注ぎたいという思いがあった。それが「娘を棋士に」という目標につながった部分もあったのだと察する。
また、女流棋士という職業に対する、憧れの気持ちも栄三にはあったのだろう。それも娘を棋士にしようと考えた動機のひとつとなっていたようだ。壽子が振り返る。
「沼津で父たちが中心になって囲碁大会を催すことになり、本因坊秀哉名人と女流棋士の伊藤友恵二段のお二人をお招きしたことがあったそうなんです。
父は仲間と沼津駅まで、お迎えに行ったのですが、同じ汽車で秀哉名人と伊藤先生がお着きになると聞いていたので、プラットホームで二手に分かれてお待ちしていたそうなんです。秀哉名人は二等車から、伊藤先生は三等車から降りて来られるのだろうと思い込んでいたからです。そうしましたら、伊藤先生も秀哉名人とご一緒に二等車から降りて来られた。それを見て父は、『ほう』と思ったらしいのです。囲碁界ではそれだけ女流棋士の地位が高く、大事にされていると理解したのでしょう。
大会では伊藤先生が指導碁を打って下さったのですが、地方の強豪や腕自慢たちが次々とかかっていっても、皆、簡単に負かされる。まったく歯がたたなくて、男の人たちが皆、女性の伊藤先生の前で首を垂れている。父はそれを見てますます、『女流棋士というのは大したものだ』と思ったそうです。それもまた、私を女流棋士にしたいと思った理由であると聞かされました。
とはいえ、父は少し変わっていたんだとは思いますよ。やはり、当時、囲碁は大人の男性がやるものとされていましたからね。女性、それも小さな女の子に棋士を目指させる、というのは一般的なことではなかったですから。だいたい、子どもで囲碁を打つというのも、あんまり例がなかったです。特に地方では。ですから、私は子ども心に、何か自分は特別なことをやらされているんだ、何かに挑戦しなくちゃいけないんだ、と思っていました」