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79歳“在野の昭和史研究者”保阪正康 妻子持ちの32歳で大学院への道を捨てた日

保阪正康インタビュー #1

2019/06/30
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最初の本が書店に並んだ当時、妻子持ちの32歳

保阪 最初の本が書店の店頭に並んだのは昭和47(1972)年1月で、当時妻子持ちの32歳。昔、短期間でしたが大学院に行ったこともありましたけど、この時に完全に大学院は捨てましたね。

――この道を進んでいこうと。

保阪 完全に物書きでやろうと。こう決断したという理由はもう一つあります。本にはその人物の行動について一行も書かなかったのですが、「死なう団」の取材を進める中で、おそらく組織に警察のスパイがいたのだろう、と気がついたんです。さらに資料を読んでいくうちに、おそらくこの人なのではないか、というところまで何となく分かってきました。東京の下町にある老人ホームまでその人物に会いに行って、雑談の時に何げなく聞いたら、「一生、心にわだかまっていたことが晴れたよ」と彼は別れ際につぶやいたんですね。

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 本が出版されて半年くらい経った頃、その人は飛び降り自殺をして、亡くなったんです。僕はものすごく衝撃を受けて、自分が書いた本で人が死ぬというのはどういうことかと、自問自答しました。で、それは仕方がないと覚悟を決めたんですね。何が起ころうと、俺はやっぱり書きたいように書く。その代わり、絶対にうそは書かないと。

 

僕は、歴史修正主義のことを歴史だと思っていないです

――そのように歴史や昭和史に向き合ってきた立場からすると、昨今の歴史修正主義的な言説はどうご覧になっていますか。「歴史は物語だから、自由自在に書いていい」といった態度も散見されますが。

保阪 僕は、歴史修正主義のことを歴史だと思っていないです。歴史修正主義の人は唯物史観の裏返しみたいなもので、彼らは初めから旗を立てるんですね。例えば「日本は侵略していません」という旗を立てて、旗に見合う史実を集めてくる。これは歴史じゃなくて、政治ですよね。

 一方の唯物史観は、演繹的に歴史を見るでしょう。つまり、ある種の法則、原則、摂理を作って、史実を当てはめて歴史を見ていく。「歴史は科学」だと彼らは言うんだけど、僕はそういう演繹的な方法ではなく、帰納的に物事を進めていきたいと思うんです。下からできるだけ史実を純粋に調べていって、解釈を試みたいと思ってきました。