照明が落とされた暗闇の神宮球場で、スポットライトを浴びながらたたずむ四人の「監督」たち。前列でマイクを握っているのは1990(平成2)年から98年まで監督を務めた野村克也氏。その横にはノムさんの後を引き継ぎ99年から05年までチームを率いた若松勉氏が。そして、前列の二人を見守るように、後列には古田敦也氏、小川淳司現監督が控えている。

 この光景を見つめながら、僕は改めて「歴史」という言葉を噛み締める。と同時にスワローズのユニフォームを着て、彼らが采配を振るっていた姿がありありとよみがえってくる。強いときもあれば弱いときもあったし、健やかなるときも病めるときもあった。さまざまな感情を抱きながら、彼らが懸命に戦い続けていた姿を、僕らもまた神宮球場のスタンドから見守り続けてきた。やはり、「歴史」という言葉以外にしっくりくる表現は見つからない。

代打で登場した野村克也氏 ©時事通信社

スワローズファンであることを誇りに思えた夜

 7月11日、雨が降り続ける神宮球場。ヤクルト球団50周年を記念して行われたドリームゲーム。あいにくの雨のため、緑色の雨がっぱを着ながらの観戦となったけれど、最初から最後まで幸せな空気に包まれていた空間に身を置くことは気持ちよかった。この日の名場面を挙げればキリがない。ノムさんがヤクルトのユニフォームを着て初めて打席に立ったこと。僕にとっての永遠のヒーロー・若松勉が代打で登場し、往年の見事なバットコントロールを武器に、レフトへタイムリーヒットを放ったこと。通算成績「191勝190敗」を記録した大エース・松岡弘は相変わらずスリムで、往時のきれいなピッチングフォームは今もなお健在だったこと。

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 小学生の頃、初めてサインをもらったのが安田猛だった。当時、マンガ『がんばれ!!タブチくん!!』にも登場し、子どもたちにとっておなじみのヒーローだった。現在はガンとの闘病中だということは聞いていたので、ユニフォーム姿でニコニコしている姿を見ているだけで胸が熱くなった。独特なオープンスタンスが特徴の八重樫幸雄はセンター前ヒットを放つものの、「あわやセンターゴロか?」というギリギリのタイミングで一塁を駆け抜け、場内の空気を一気に和ませてくれた。センターから矢のような送球を見せた飯田哲也もまた、きちんと見せ場を作ってくれたことが嬉しかった。

 応援歌の「お前」問題が話題となっている昨今、ツバメ軍団が奏でる杉浦享の応援歌では、何のためらいもなく、「杉浦~、杉浦~、お前はいい男!」と往年の歌詞を思いっきり叫ぶことができた。この場にはいなかったけれど、大杉勝男、船田和英、あるいは高野光……。すでにこの世にはいない名選手の姿も自然に浮かんでくる。名場面、名シーンを挙げればキリがないほど、何から何まで楽しく、そして懐かしく、幸せな時間がこの日の神宮球場には流れていた。

 雨にもかかわらず、平日の神宮球場には2万7727人の観衆が詰めかけた。一塁側内野席、ライトスタンドだけではなく、三塁側も、レフトスタンドも、360度ヤクルトファンが集っていた。もちろん、球場に訪れることはできなくても、テレビ中継を通じてこの試合を堪能した人もたくさんいる。それぞれの人たちが、それぞれの場所で「自分はヤクルトファンなんだ」と再確認することができたことだろう。ファン歴の長さや、現地観戦の回数など関係ない。誰もが「ヤクルトファン」という絆で結ばれていることを実感でき、それを誇りに思えたことが、何よりも嬉しく、幸せだったのだ。

ドリマトーン奏者・森下弥生さんに会いに行く

 この日、球場内には神宮球場の名物だったドリマトーンの音色が響き渡っていたことも、感動の一助となっていたことも見逃せない。かつて、神宮球場のバックスクリーンには、試合中に「ドリマトーン演奏・森下弥生」と表示されていた。ちなみに、ドリマトーンとはいわゆる電子オルガンのことで、ヤマハ製は「エレクトーン」と呼ばれ、ビクター製は「ビクトロン」、河合楽器製のものを「ドリマトーン」と呼ぶのだという。かつて、若松勉が打席に入るときには、応援団のコールに先駆けて、ドリマトーンによる『鉄腕アトム』が奏でられていた。あるいは、飯田哲也の場合は、なぜか『おさるのかごや』が流されていたことなど、ありありと思い出す。

 僕にとって最も印象的だったのは、攻守交替のイニング間やグラウンド整備の際に場内に響き渡っていた『ライディーン』だ。YMOの存在など知らない小学生だった僕は、後にYMOを知り、本家『ライディーン』を聞いたときに、「森下さんの曲をパクっている」と真剣に思ったものだった。森下弥生さんは今でも音楽教室の講師をされているというので、僕はすぐに取材を申し込み、ドリームゲーム開催数日前にお時間をいただいた。森下さんは、実際に使っていた譜面やスケジュール帳を持参し、当時の思い出を語ってくれた。

ドリマトーン奏者・森下弥生さん ©長谷川晶一

「私が神宮球場でドリマトーンを弾いていたのは初優勝の前年の秋からでした。ということは昭和52(1977)年。その翌年にチームは初優勝。優勝の瞬間にはものすごい数の紙吹雪が舞って、グラウンドにはファンの人がなだれ込んで、応援団の(岡田正泰)団長がグラウンドに下りてきて、みんなで優勝を祝っていたことを、よく覚えています」

 神宮球場でドリマトーンを弾くことになってすぐにチームは優勝、日本一に輝いたため、森下さんは「ヤクルトは強いんだ」と勘違いする(笑)。しかし、チームは常に下位に沈み、その後、長い低迷期に入ることになる。

「その後、ずっと勝てない年が続きましたよね。シーズン途中で監督が代わったこともあったし……。そんなときは私なりにゲンを担いで着ていく服を変えたり、持ち物を変えたりしたけど、効果はなかったですね(笑)。80年代は、“絶対にもう一度優勝するまではやめられないぞ”、そんな思いで見守っていました」

 試合展開に応じて、絶妙なタイミングで絶妙な曲をチョイスして鍵盤を弾く。常にグラウンド上に気を配り、選手たちの一挙一動に注意しなければならない。とても集中力を要する仕事だったという。

「試合中はずっとグラウンドに集中していました。でも、もっと大変なことは試合中にトイレに行けないことです(笑)。試合前日からは食べ物、飲み物に注意していました。演奏ブースには窓がないので、ファールボールが飛んでくることもあったし、春先や秋口には寒さで手がかじかんでしまうし、夏はとても暑いし、意外と過酷なんですよ(笑)」

当時、実際に使っていた譜面 ©長谷川晶一