農業用水を得るために3本の川をつぎはぎ
ところで、東川を廃止したのは天井川だったからだ。
中国山地では、江戸時代から明治時代にかけて「たたら製鉄」が盛んだった。原料の砂鉄を取るには、山を崩して水路に落とす。比重の軽い土砂は流れて、砂鉄が残る。これで製鉄するのである。
しかし、このやり方だと下流に土砂がたまる。特に東川は天井川となり、切り捨てられる原因になった。
現在の倉敷市の標高図を見ると、かつての東川の流路がくっきり見える。海抜ゼロメートル地帯があるような低い市街地の中で、標高2~4メートルの河道跡はひときわ目立つ。
細かい話になるが、2本を1本にする時、全域で西川を残したわけではない。
東西分岐点の直下では、まず東川を残し、西川を陸にした。ただし、東川は2キロメートルほどで仕切り、先は干上がらせた。そこから新しく川を掘り、陸地化した西川の下流につなげた。
つまり現在の高梁川は「東川」→「新しく掘った川」→「西川」という順で流れているのである。
どうせなら全て西川にしてしまえばいいのに、東川を一部残したのは、倉敷方面の農業用水を得るためだった。このため東川の仕切部には巨大な樋門が建設されている。
一方、西川の一部陸地化された土地にも貯水池が設けられた。高梁川は暴れ川なのに、渇水になりやすいからだ。ただ、この貯水池は漏水が多くて役に立たなかった。
水害を懸念して町は猛反対していた
こうした高梁川の改修案が明らかになった時、真備町は猛然と反対した。
確かに倉敷市街の水害は減る。農業用水も確保されるかもしれない。しかし、真備の水害はむしろ酷くなると主張したのだった。
現在は倉敷市の一部でしかない真備町だが、平成合併の前は独立した町だった。昭和合併の前は7つの村だ。旧7カ村の村長や議員は、国や県に計画反対の陳情を繰り返した。県からの返事はなく、全員で県庁へ押しかけようとして、暴動と間違えた警察に出動されたこともある。内務省の技監は「大を救うために小の犠牲はやむを得ない」と発言した。