「水害は2倍に増え、15年のうち10年も被災」
結局、その通りになった。戦後の1949年、旧7カ村が作成した文書には「水害は以前の2倍に増え、過去15年のうち10年も被災した」という内容が記されている。
真備の人々が反対した理由は他にもあった。暴れ川がもう1本あったのである。
高梁川の支流・小田川だ。真備町を西から東へ貫いている。
小田川が氾濫を繰り返すようになったのは、江戸時代の工事が原因だとされている。
『真備町史』によると、広島県が源流の小田川は、もともと同県福山市に流れていたのだという。福山は再々洪水に見舞われていたため、江戸時代初期の1619年、初代福山藩主となった水野勝成が河道を変えて岡山県側に流したとしている。水野勝成は徳川家康のいとこだ。
「文献が残っているわけではありません」と、国交省高梁川・小田川緊急治水対策河川事務所の正木俊英・副所長は念を押す。「ただ、珍しい川です。この辺りの川は、中国山地のある北から南の瀬戸内海へ流れるのが普通なのに、広島県側の西から東へ流れています。このため勾配があまりありません」。
「この不自然さこそ、福山藩に流れを変えられた証拠」と話す人が真備町にはいる。
西日本豪雨で町内の8カ所も堤防が壊れた
緩い勾配が真備町を洪水の常襲地にした原因の一つだ。
やや専門的になるが、小田川の河床勾配は2200分の1だ。2.2キロメートル流れて、やっと標高が1メートル下がる。一方、高梁川の河川勾配は900分の1で、900メートル流れると標高は1メートル下がる。高梁川の方が2.5倍近く急なのである。
そうした2河川の特徴を踏まえて、西日本豪雨で真備町が池のようになったメカニズムを、正木副所長が解説する。「水位の異なる水がぶつかると、低い方の水位が上がって、高さを合わせようとします。つまり、高梁川の増水時、支流の小田川からは流れ込まず、水位は高梁川と同じになるまで上がります。しかも、小田川の勾配は緩いので、水位の上がる距離が長くなります。これを背水(はいすい)区間と言います。この区間で堤防から越流し、最後は破堤してしまいました。同じ現象が小田川に流れ込む小河川でも起き、真備町内の小田川や小河川で計8カ所も堤防が壊れたのです」。
小田川の緩やかさが被害を拡大させた一因というのだ。
こうしたことから「福山藩のために真備町は400年も水害に遭わされてきた」と憤る人もいる。
解決するには、小田川が高梁川に流れ込む勾配を急にしなければならない。