「一度陸にしたところを、川に戻すのです。巨額な費用をかけて、どれだけ無駄なことをしてきたのか」
60代の女性が吐き捨てる。
岡山県倉敷市の高梁(たかはし)川で6月、政府が大正時代に陸地化した河道を、再び川に復活させる工事が始まった。こうした事業は全国でも極めて珍しい。
真備町の洪水は“人災”ではなかったか
なぜ、そのようなことを行うのか。理由を探っていくと、昨年7月の西日本豪雨で51人が亡くなった同市真備町の洪水は、幾重にも重なった歴史的人災ではなかったかという疑いが浮かび上がる。
高梁川は、中国山地から倉敷市の瀬戸内海に注ぐ全長111キロメートルの河川だ。岡山県では三大河川の一つとされる。
暴れ川としても有名で、しばしば洪水を引き起こしてきた。
被害が特に大きかったのは1893(明治26)年だ。流域で5万209戸が浸水し、1万2920戸が全半壊。死者・行方不明者は423人にのぼった。
高梁川が東の端を流れる真備町では、復興できずに消えた集落もある。
洪水対策で河川本数を減らす理由
当時の内務省はこれを受けて、1925(大正14)年までに高梁川の大改修を行った。
その切り札となったのが、なんと河川を締め切る工事だった。
それまでの高梁川は、真備町のすぐ下流で高梁西川と高梁東川の2河川に分かれていた。
このうちの西川が今の高梁川である。東川は現在の倉敷市街地を流れていたが、大改修で締め切られて陸地化された。
理由はカネだったとされる。
2河川とも改修するより、1本だけ河道を広げ、堤防を増強して、2本分の流量を確保すれば、工事費も維持費も安く上がると考えられた。
だが、新たな放水路を設けることはあっても、河口の河川本数を減らす例はあまりない。
例えば、隣の岡山市には百間(ひゃっけん)川という放水路がある。高梁川と並ぶ岡山三大河川・旭川の洪水から岡山城下を守るため、江戸時代の初期に掘削された。川幅が百間(180メートル)あることからこう名付けられた。