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「母親なのにどうして働くの?」カネカ騒動で考える、育休をめぐる女たちの戦い

『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』より

2019/07/12

「母親なのにどうして働くの?」と責める声も

「女の人も一生働き続けようと思っていないから、出産を機に簡単に会社を辞める。出産を言い訳にしているように私には見えた。出産したって工夫すれば仕事を続けることができるはず。私は、その覚悟だったし、実際にそうした。前例がないなら、自分で作ればいいと思った。周りになんと言われようと、必要だと思うなら、まずは主張すればいい」

 そんな石原に対して、当時は、女性たちでも、「母親なのにどうして働くの?」「お母さんが働くなんて、子どもがかわいそう」「ご主人のお給料が少ないと思われるわよ」と、責める声が多くあったという。さらに、38歳のときに2人目を妊娠すると、露骨に「また産むつもりなのか」と非難めいた顔をされたという。

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「結婚しても会社をやめない。出産してもやめない。そんな私に、さらに2人目を産むなんて、図々しい、という目が向けられた。でも、そういうのに負けて自分の思う道を諦めたらいけない。周りに流されて、あとでしまった、と思っても遅いもの」

 石原には自信があった。それは、自分の経験は必ず職場で生かされる、という自信である。

「私の出産や育児の経験は、そのまま売り場に生かせると思った」

 石原はその後、女性初の役員となった。女性でも経営陣になれるという実例を示し、出産や育児と仕事を両立したという面でも、働く女性たちに大きな希望を与える存在となった。

男女差別に泣き抗った女性たちの悲願

 とはいえ、石原のような傑出した個人の努力によって一企業の中に育休という制度が生み出されるというのは、やはり稀なケースであった。

 日本社会全体を大きく変えるには、やはり国家をあげての取り組みが必要となってくる。

 働く女性の環境を大きく変えた法律がある。1985年に成立した「男女雇用機会均等法」だ。

 この法律の制定に生涯をかけたのが労働省(当時)のキャリア官僚、赤松良子である。赤松は東京大学法学部を卒業後、労働省に入省し、婦人労働問題に携わった。

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「私の生まれる前から続く長い列に私も加わっただけよ。女性が不当に差別される社会に泣き、抗った人たちの列にね。男女雇用機会均等法に関して言えば、私自身も当事者だった。誰よりも、この法律の誕生を願っていたのよ。自分自身が被害者だったんだから」

 赤松は、1929(昭和4)年、大阪生まれ。父は洋画家、母親はクリスチャンという家庭に育った。利発な少女は、子ども時代から男女の不平等に目を向ける。

「選挙日になると男性は得意そうに投票所に行く。でも、女性は、誰一人行けない。ただ、見ているだけ。そんなのおかしいと思った。だから、16歳のとき、戦争が終わって女性にも参政権が与えられた時は、本当に嬉しかった。日本の女性が努力して、日本人全体が考えを改めて改正されたわけではなく、占領軍が日本女性に与えてくれた権利だったけれど大歓迎だった」

 新しい憲法となり、女性でも高等教育が男性と同じように受けられるようになった。東京大学法学部へ進学。800人中、女子学生はたったの4人だった。男子学生と切磋琢磨する日々は純粋に楽しかった。

 東大を出ていても、民間企業は女性を受け入れようとしない。赤松は国家公務員試験を受け、労働省に入省する。

「なぜ、労働省に入ったのかって聞かれると驚くわ。当時、労働省しか女性キャリアを受け入れてくれなかったからよ。そこしか入れない。つまり国家公務員でさえ入省の時点で男女平等ではなかったの」