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「母親なのにどうして働くの?」カネカ騒動で考える、育休をめぐる女たちの戦い

『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』より

2019/07/12
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必要だと思うものは自分で勝ち取りに行く

「人間が違うのよ。特に女性。内地の日本人の考えや、行動を見ていたら、なんだかとっても窮屈な感じがした。言いたいことを言わない。小さなことにこだわりすぎる。自由じゃないの」

 内地で育つと、「女は女らしく」教育されてしまう。家庭でも社会でも従順であるようにおしとやかに躾けられる。そこに石原は違和感を感じ取ったのだった。戦争では家族と引き裂かれて苦労をしたが、この時の経験もあって石原は、これからは女性でも仕事を持ち自立することが大切だと考えるようになる。戦後、憲法が改正され、女性でも国立大学に進学できるようになり、石原も1949年、一橋大学に入学。

「戦後、家族が満洲から引き揚げてきて経済的にとても苦労した。だから、経済を学んで、立派な経済人になって、大いに稼ぎたいと思ったの」

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 一橋大にとっては、初の女子学生。だが、男子学生も教授たちも皆、親切で嫌な思いは一切しなかった。卒業後は、銀行に勤めたいと考えた。ところが、銀行には、女性を男性と同等に雇うことはできないと門前払いされる。

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「新しい憲法のもと、男女共学の大学を出たんだから、世間は男と同じように扱ってくれるものと思い込んでいた。甘かった。世の中をわかっていなかったのよ」

出産後も働く女性は皆無だった

 先輩の紹介で、高島屋百貨店に就職。役員面接では「女性を活用しないと会社として損なのでは」と堂々と発言したという。

「買い物客の大半は女性だもの。女性の感性が生かせる女性の職場だと思った。一生、働く覚悟で就職したの」

 販売員としてスタート。各フロアで常に売り上げを伸ばした。課長となり、大口の仕入れを任されるようになる。アメリカまで家庭用品の買い付けに行くと、アメリカ人に「日本から女性が仕入れに来たのは初めてだ、やっと真剣に話し合う気持ちになれる」と言われたという。「アメリカのデパート産業では女性が重要なポジションに就いていた。日本もそうなるはず。そうならなければおかしいと思った」。

 夫はそんな石原の最大の理解者だった。大学のゼミの先輩で朝日新聞経済部の記者をしていた。家庭と仕事を両立させたいという石原を夫も全力でサポートしてくれた

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 31歳で初めての妊娠。出産後も働く女性は皆無だった。もちろん、育休という制度も概念も、当時の企業にはなかった。すると、石原は会社にひとりでかけ合い、2か月間休んで戻ってくると、自分から条件を出して交渉し会社側を納得させる。自ら考え、勝ち取った育休だった。